観光目線で撮る事からの脱却、あるいはは技法優先で被写体を探す事からの脱却、
という話をいつもしているのであるが、今回は、あえてそういう撮り方をしつつ
撮る時にどんな事を考えているのかを書いてみよう。
という事で紅葉の奈良公園のあたりを訪れてみる。
まずは鹿というモチーフについて。
今回は鹿の写真を多く選んでいるのであるが、以前の記事でも書いたように
奈良=鹿というイメージでは、直接的すぎるし説明的すぎる。
「説明的」というのは、「ここ(奈良)に来ました・居ました」という意味であり、
一般に良く言われる言葉では「行ってきました写真」というものにも近い。
この写真では鹿が動き出す瞬間を狙っているのだが、だからと言って、決して
「良いシャッターチャンスを捉えた」という話ではない。
最初からこういう画(え、構図)が欲しくて待っていたのだが、じゃあ、待っていたから
(待つ努力に対して)評価されるかというと、そんなわけでもない。
絞りをコントロールして深度を適宜浅くするとか、シャッタースピードやISOを
どうするとか、構図的に(動くものは)進行方向を開ける、というのも、それらは
そう撮りたいから、そう設定したのであるが、あくまでもそれは技法的な話であって、
元々「紅葉+鹿=奈良」というシナリオ自身が説明的すぎるという事だ。
・・じゃあ、という事で、今度は紅葉に興福寺五重塔をからめる。
主役が2つある構図であるが、ここでは被写界深度の深い広角・コンパクト(=撮像素子が
小さい)でパンフォーカスにしているのであるが、さらには広角のパースペクティブ
(遠近感)誇張効果により、五重塔を小さく配置している。
そして構図上紅葉の右下の部分が空の空間になるので、そこに五重塔が来るように配置、
確かにこれでバランスは取れるのだが、けど、残念ながらこの写真も観光目線に寄った
写真であり、作画意図がつけられない。
つまり、1枚目と同様に「紅葉+五重塔=奈良」というシナリオになるのだが、
じゃあ、それで何が言いたいのか? という事になってしまう。
・・寒いのか? 楽しいのか? 物悲しいのか? ノスタルジックなのか?
この写真では何も表現しようがないので、結局これも直接的・説明的写真の域を出ない。
銀杏の黄色一面の世界。
こういう写真は、もっと細かいところに気を配れば、カレンダーとかの写真に近くなる、
具体的には、この写真では背景に小さく人が入っているが、それが入らないように狙う、
また、日中、日が高い状態で写しているので、黄色の銀杏の絨毯に木の影が入っている。
そして背景の紅葉と黄色い銀杏のカブリが多いのでそれをかぶらないアングルから撮る等・・
けど、そうやって、細かい問題点を神経質に1つ1つ潰していく事のみが写真を上手く撮る
という方向性では無いと思う。
概ねベテランになるほどそういう部分に神経質になってくるのだが、じゃあそうやって
「お手本をなぞるように」して撮って行き着く所にあるものは、やはりカレンダーや
ポスターのような綺麗な観光写真だ。
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今年ももう年末、カレンダーの時期であるが数年前までは、色々なカメラメーカーが
季節感あふれる綺麗な風景などを月めくりにしたカレンダーを発行し、それに例えば
カメラ店やDPE店の店名を入れたものを販促物としてお客さんに配るという事が
良く行われていた。
数年前、いきつけのカメラ店で店長が言った言葉が忘れられない。
「つまらない写真ですなあ・・もう来年から配るのを止めますわ。」
・・私はちょっと驚いた、だってさらにその数年前までは、その店長も、主にシニアの
常連のお客さんとかを束ねて写真サークルを作って、写真展やらコンテストやらで、
そうした「お手本」のような綺麗な写真を量産していたからだ。
まあ、1つはコストダウンもあるのだろう、メーカーからカレンダーを買えばお店の
経費になるという事だ。
しかし、もう1つ、私は重要なポイントに気が付いた。
小さいカメラ屋さんでは店長がDPE(現像やプリント)の業務もこなす事もある、
色々なお客さんからのプリントを毎日何百枚、何千枚とするわけだ。 もちろん
それは1枚1枚目を通す、つまり、一般の人とは比較にもならないくらいの多くの
写真を見てきているわけだ。
十数年前であれば、カメラの性能も低く「綺麗に撮れる」事自体が重要な技術であり
写真の良し悪しと言われていた。
しかし、それからカメラは大きく進化し、誰が撮っても綺麗な写真が撮れるようになり、
さらには、写るんです、や、携帯電話カメラ、コンパクトデジカメなどの普及により
写真はそういう風に「普段行かない所で綺麗な景色を撮る」(=記念写真、証拠写真)と
いうものから急速に変化し、もっと日常的で一般的なものとなった。
そういう写真を毎日大量に見てきて、店長の考え方も変わったのであろう、
「綺麗に撮るだけではなんの創造性も個性も表現も無い」と・・
広角コンパクトで接近してほぼノーファインダー状態、遠近感を誇張して鹿の面白い
姿を撮る。 ・・とそこまでは計算範囲であるが、鹿の口先から紅葉が火焔のように
出ているのは偶然だ。 しかし、じゃあ、それが面白いからと言っても、この写真では
それはあまり目立たず、口先以外の紅葉は無くて後は全部緑の葉っぱ、とかいう風で
ないとインパクトが無い。けど、そうした偶然を狙って何枚も何十枚も無駄打ちを
していたらそれも時間の無駄だ。
だが、じゃあ、そういうもの(火焔)を見て、ふと、これだと気が付き、また同じような
状況を狙って、今度は鹿の口から水が出ているとか空の雲が煙に見えるとか、そんな風に
撮ってみようと考えるのも、やはり当初の創造力が不足しているという事になってしまう。
そうした偶然を狙って、あるシチュエーションでずっと待って何度も何度もシャッターを
切る、あるいは別の日も何回もそれを狙う、というのも、これもやはり「シャッター
チャンスを狙っている」という風には思えず、こだわりとも思えず、・・なんと言うか、
その時間で別の被写体に目を向けた方が写真を撮っていて楽しいのではなかろうか?
色々な状況で、シナリオあるいは作画意図などを毎回違うパターンで考えるのが
楽しいのであって、シナリオに流れや共通性を作れば組写真となるし、そういう風に
色々「創造」するのが趣味としての根源的な楽しみ方なのだと思う。
だから「お手本をなぞる」のもつまらないし、「偶然を狙って、その待った努力を
対価と考える(=待って撮ったから良い写真になったんだ、と思う)」のも考え方が
違うのだと思う。
「浮見堂+紅葉=奈良」という、さらに観光目線的な写真。
作画意図はつまらないが、技法的には結構凝っている。
まず中望遠系コンパクトで少し圧縮効果を出しつつ浮見堂と紅葉の距離を調整、
構図上無駄になる空の部分を全部紅葉で隠す、この時にピント位置は紅葉にあて
AFロックで構図変更、AEロックがかからないのでそのままでは背景の浮見堂を
中心に露出が合うので紅葉はアンダーになる、そこで、日中シンクロをかけるのだが
その前に浮見堂の露出を落すためにマイナス補正。 フラッシュの光量を制御するため
ISOをコントロールする等々・・
でも、こうやって考えているうちに、当初仮に「紅葉に囲まれた奈良の休日」みたいな
簡単な作画意図を持っていたとしても、いつのまにか、たとえばフラッシュの光量計算は、
GNxルートISO÷距離=絞り値 みたいな技法や数式が頭の中に浮かぶために、
なんだか技法優先になってしまい「技法の為の写真」という方向に流れてしまう。
技法の為の写真というのは、たとえば「流し撮りができる被写体ばかりを探す」とか、
「
日中シンクロが有効な被写体を探す」というようなものである。
当初、被写体を見たときに持っていた「感覚的」な要素(つまり撮りたいという気持ち)
をそのまま崩さずにスムースに、自然に撮影技法に移行できれば良いのだが、
技法優先では感覚をすっとばしていきなりカメラの操作・設定だ。
またそこまで行かなくてもこの写真のケースでは撮る時にゴチャゴチャと技法面を
考えすぎる事になっている、もうそうなったらフラッシュの光量を最適にするには
どうするとか思い出して、ISOや絞りを微調整して何枚も写真を撮ったりして
なんだか写真を撮る楽しみよりも、まるでフラッシュの実験かテストをしているような
状態になる。こういう考え方で写真を撮るのも写真の楽しみを大きく損なう原因となる。
またしても技法優先だ。
背景の赤い橋をボカしたい。 その心は・・ というと当初は、「たとえば組写真を
作るならば、紅葉を背景でボカしたものと、赤い橋をボカしたものは、なんらかの関連
を持って繋がるストーリーが作れる」と思ったからだ。
でも、撮る段になったら、そんなシナリオやストーリーといった、感覚面、創造面は
どっかにすっとんで言ってしまっている。
何故ならば、その作画意図を実現しようとした場合、実はこの場所は室内で撮影アングル
に色々と制限がある、この場合この構図やボケ表現を得ようとしたら、ファインダーなど
覗けないくらいのローアングルで一眼を構えなくてはならない、AFは端には合わないし
ガラス越しだと外す可能性もあるので、MFで距離を目測し手前の落ち葉にピントが
来るように目測で合わせておいてからノーファインダーで撮らざるを得ない。
かなり無理な体勢で、この状況では構図的に真っ直ぐかつ赤い橋まで収まっている
事自体奇跡的なので、数枚撮ってトライ&エラー(試行錯誤)だ。
「これでいけるか? あ、失敗。 次はどうか? うん、これならいける」という
風な感じとなり、まあ、これでまた被写界深度が気に入らないから絞り値を変えるとか、
これは単焦点だが、ズームだったら構図が気に入らないから焦点距離を変えるとか、
そんな風に思い出したら、これもまたいつのまにか、当初の「感覚面」の思いなど、
どこに行ったものやら・・(苦笑)
面白い表情の鹿。
けど、面白いかのは鹿そのものであって、決して写真が面白いわけでは無いことが
重要なポイントであると思う。 だから「撮った人が鹿の表情を創り出したわけでは無い」
ということだ。「探したから偉い」という考え方は「待ったから偉い」という事と等価であり、
そうした代償の対価に対して満足してはならない。
単に時間やお金をかけて待ったり遠くに行ったからいい写真が撮れたと思うのは、
それだけ手間隙かけた事の見返りが欲しいという気持ちの現われなのであって、
それを思うならばむしろ「受動的であったり自分の創造性が入り込む余地が無いから
面白くない」と考える方が自然な方向性だ。
では、もし面白い表情を見つけたらどう考えるか、という例をあげるなら、
「この鹿は、ひなたぼっこして気持ちいいのかなあ? じゃあ気持ちよさそうに
見えるように撮ろう」と思い、
そこで初めて、日向ぼっこ=光の部分の強調、じゃあどうする、マイナス補正で
光と影を対比させるのか? 顔に光があたるアングルや瞬間やそういう状況の鹿を
狙うのか? そして、気持ちいい=リラックスしている、じゃあ、だらんとお腹まで
地面につけている状況を狙うのか、体の面積を広く見せるようなアングルを狙うのか、
など、計算っぽく言えばそういう事だが、こういうのは日常の経験則からある程度
導くことができる筈であり、それを創造性と思えば良いという事だ。
あるいは、他の鹿を入れてそれも同じ事をして同一性を狙うのか、あるいはまったく
違う事をして対比(アンバランス)を狙うのか・・
そうやって色々考え(創造し)、自分の思うシナリオやストーリーやシチュエーション
(=作画意図)に近づける事が写真を撮っていて楽しいのであって。
「面白い表情の鹿を撮りました。 どう?、いいシャッターチャンスだったでしょう?」
と思う事では無いという事だ。
さて、初級者が写真を撮る感覚とはある意味かけ離れた感覚であるので、
読む方も疲れてきたと思うので、残りの数枚は適当に短い説明で流す・・
建物を撮る場合、建物をきっちり歪みの無い構図で撮るのは説明的すぎるので
状況をからめて撮るというのも1つの方法。 簡単なのはこのように空を入れる、
しかし、建物に露出を合わせると空がオーバーになり、空に合わせると建物がアンダー
になる。 こんな場合シンプルな解決策としては、「どっちが主役」なんですか?
という事になる。 この場合は空と雲が主役、だから空の比率を構図上の3分の2まで
上げているわけだし、露出も空に合わせているという事だ。
けどまあ、これも説明的で直接的すぎるという事にもなる。
鹿+五重塔
この場合、かなり近接している事とローアングルがポイントだ。
勿論このアングルからはノーファインダー撮影となるが、五重塔を背景に入れる事だけは
たとえノーファインダーでも意識しつつ撮る。
この場合アングルとパースペクティブにより五重塔は大きく傾いたが、この鹿の表情と
あいまってむしろユーモラスなイメージ。 鹿の目と胴のあたりにはピントが来ているが
鼻の部分は近すぎて被写界深度外、ただし、だからダメというわけではなく、むしろ
迫力というか、リアル感を出している。 鹿に露出が合っているから順光の空は白トビ
するが、これもだからダメというわけではなく、テーマに関係ないから無視したら良い。
これはある意味偶然のショットではあるが、この位置にカメラを持つという事は、
奈良名物の「鹿せんべいの餌やり」を間接的に表現している。 それで近接で面白い
(餌欲しげな)鹿の表情と背景に五重塔を入れるのは「意図した偶然」
だから、撮っていて楽しいし、その撮る楽しさが自分で後から見返してもわかるので、
なんやかんや技法を凝らして撮っているよりも、楽しい写真ではある。
流れる紅葉をイメージした写真。
被写界深度(=絞り値)はどう設定しているかというと、もうだいたい構えた時に
絞りを開放と中間絞りの間くらいに、自然に指を動かしている。
あれこれ考えないで撮った例、せっかく当初被写体を見つけたときの感覚的なものが
あるのに、ここでまた技法を色々考え出したら前述の例のように、絞りやISOや
フラッシュをどうする、露出補正は? などと考えすぎてしまう。
だから、もう、なるべく感覚が残っているうちに最小限かつ思考によらないカメラ
設定でさくっと撮るのが本来は一番良いという事だ。
演出写真というのは、被写体をあるがままに写さず、自分の思うシナリオやストーリー
や策が意図などに合うように設定して撮るという事だ。
以前の記事でも書いたが、その対極は「絶対非演出」であり、それが演出写真との
是非を討論されていたというのはもう何十年も昔の話だ。
じゃあ、たとえばある「決定的瞬間」を捉えようと自分の待ち望む構図になるまで
ずっと待つのは、それは「絶対非演出」なのか? 答えは微妙になると思う。
商業写真では演出が無い写真はありえない、何かを伝えるために、たとえばそれは商品
の宣伝であったり、観光地の魅力であったり、政治的な意思であったり、社会的な意識
であったり、目的は様々だが、そこで「絶対非演出」にこだわってもしかたがない。
まあ、数十年前、おそらく写真を撮るといっても1日に数枚、数十枚というレベル
でしかシャッターを切らない時代だ、今のデジタル時代では一日に数百枚、下手をすると
数千枚という枚数を撮る人もいる。 極論すれば丸一日自分の視線に合わせてビデオ
カメラ(動画)を撮りつづけ、その中からある一瞬を選んだとしたら、それこそ
「選ぶ」という意味での「シャッターチャンス」や「演出」あるいは「後付けの作画意図」
はそこに無限に存在する、沢山撮った画像の中から選ぶ時点ですでに「自らの意思」が
働いているという事にある。
だからまあ、そんな精神論や哲学的な部分にこだわらず、必要と思えば自分で好きに
シチュエーションを作って撮れば良いとおもう。
けど「
ドングラー」(注:小物や人形などを持ち歩き、さまざまなシチュエーションで
それを前景や背景にしてシナリオを考える作画技法の一種、秋にドングリを使うのは特に
ドングラーと呼んでいる・笑)は、ちょっとここのところいつもやっているので、
当たり前すぎるか・・(苦笑) 今度はまた別の小物を準備していくとしよう。
(
後編につづく)