京都の南西部、隠れ紅葉スポットの「
大原野」(おおはらの)の続編。

紅葉にはまだ早い11月の初旬だが、他の記事でも述べているように、
ちょっと時期を外したほうがすいていて快適だし、それにちょうど
緑から紅葉に変わっていく季節の雰囲気を味わえるという事もある。
真っ赤に燃えるような紅葉は確かに見た目はとても綺麗であるのだが、
写真的には、それを撮ってみても、単に赤い葉っぱが沢山あるだけで
「広角で撮っても望遠で撮っても、京都で撮っても、家の前で撮っても
同じじゃあないか」、とばかり、ちょっとがっかりする事もあると思う。
だからまあ、紅葉は目で見て楽しむのが良いという事だろうか、
あまり気負って「今日は紅葉を撮りにいくぞ・・」などと考えない方が
気楽なのかも知れない。

こういう薄暗い竹林も京都の特徴かもしれない。
発明王エジソンが電球を発明した時、そのフィラメントの素材に
京都の竹を使ったという話は有名であるが、まあ科学者であれば
竹を単なる素材として電気伝導率などを計算するのかもしれないが、
日本人ではやっぱり、竹や竹林というものはもっと感覚的な郷愁を
味わっているのだろうと思う。
京都・嵐山(あらしやま)のあたりの竹林もなかなか見事なものだが、
ここ大原野も無名ではあるが嵐山に負けずに素晴らしいと思う。
嵐山と違って誰も通らない竹林を歩いていくと、お寺や神社が
ひっそりとそこにある、というマイナースポットファン(?笑)には
なかなか嬉しい状況。

2.5kmほどの道程であるのだが、写真を撮りながらでは、通常その距離を
歩く時間の数倍はかかってしまうし、さらに、アップダウンも思ったよりキツく、
余計に時間がかかる。
11月とは言え、今日は天気もよく、朝晩の冷え込みに備えた厚着のいでたち
では汗ばむほどであり、涼しい神社の境内での一休みで足を休めれるのも助かる。
ベンチに座っている状態でもカメラを構えれば写真が撮れるし(笑)

こういう、紅葉になりかけの葉っぱって、あまりマジマジと見たこと
なかったけど、色が混じってなかなか良いものだ、
「紅葉を撮りに行く」となると、「いやあまだ早いよ、来週くらいかな?」
などと写真仲間同士の会話がいたるところであると思うのだが、
なにも「全部真っ赤に染まったから見ごろ」という訳でもないと思う。

で、そもそも「今日は紅葉を撮りに来た」と言うわけでもなく、秋の大原野の
さわやかで、かつのんびりとした時間と場所を味わいに来たわけだ。
大阪のような大都会では季節感が無く、日々の生活に追われていたら、
いつのまにか秋が過ぎ冬となっても、何も四季の移り変わりを感じない
場合も多々ある。
「ブルル・・寒くなったなあ、もう冬も近いな」・・・そんなものである。
でも、こうやって、休日に都会を離れてのんびりと散策していると
そうした季節感というものを強く感じる。・・言ってみればそういう感覚を
写真に撮りたいわけであって、別に真っ赤に紅葉した景色の映像を
「証拠写真」として撮りたい訳でもなんでもないのだ・・

最近、私が良く書いている「ガイドブック族」や「マニュアル族」という言葉、
これはつまり、皆が同じ時に同じ場所で同じ事をするようなライフスタイルに
疑問を感じての事であるが、とは言え、それは天邪鬼(あまのじゃく)的な
考え方、という訳でもなく、・・なんと言うか、物事の本質は、そのように
決められたレールの上を進んで満足するような類のものではないだろう?
という事だと思っている。
だから、仮に皆が「お~綺麗な紅葉だ」とか言って、皆が一眼やコンパクトや
携帯向けてカメラを向けてパシャパシャやっていたとしても、その場所で
まったく違うものを見つけたら、思わずそっちを撮ってしまうという事だ。

たとえ、それが蜘蛛の巣の張った古びた蛇口であったとしても(苦笑)
この場所のこの雰囲気において、自分の感覚が、この場所(土地)の
イメージにその被写体がふさわしいと思えば、そっちを撮るという事だ。
・・・さて、そんな大原野を歩いていると、もういい時間になってきたようだ。

腕時計を見ると午後4時10分、秋ともなれば夕闇の訪れるも早く、
5時を過ぎればだんだん撮影が苦しくなってくる。 気温も急激に冷え込んで
くるだろうから、あまり長居は禁物だ。 あらかじめチェックしておいた
バス時刻表(注:これは大切)の時間に間に合うように引き返すとするか・・

秋の空が綺麗だ。 秋はある意味だれでも郷愁や寂寥感や独特の感覚を
持つ季節であろう、だからこそ、その感覚を写真に撮りたいと思うのであろう・・
それは「真っ赤な紅葉を綺麗に撮りたい」という感覚とは全く異なると思う。