滋賀県の彦根(ひこね)の散策の後編。(前編は
こちら)
前編では、彦根の緑のイメージを中心に、比較的大人しい被写体を集めてみた。
目立つという事と、目立たないという事、そんな区分で被写体を見てみるのもまた
ポイントの1つなるかもしれないという話であった。
彦根城の西側にある「彦根夢京橋キャッスルロード」は、本来の古い「町並」みを
新しく再生した「街並み」である。
自然な古さという感覚とはかけ離れるが、これはこれで、なかなか斬新な雰囲気だ。
写真というのは怖いものであって、真実を写しているようで、そうでは無い。
撮影者が何に感じて、何を撮るか、によって、同じ土地の写真でも印象は、がらりと
変わってしまう。 前編を通して、緑のある古い城下町のようなイメージの写真ばかり
並べていたら、彦根とはそんな街であると思うだろうし、
また別の視点の写真ばかり集めて掲載していたら、彦根のイメージはがらりと変わって
しまう。
観光案内の写真であれば、名所名跡を中心に押さえておく必要があるのであろう、
それがその土地を紹介するのに、最も適した写真であるのだから当然だと思う。
でも、そうした観光案内の写真を見て、その土地に出かけ、「あ、これはガイドブック
(パンフレット)に出ていた写真だ」と言って、同じ写真を撮っていたのでは写真の
楽しみが半減してしまう。
つまり、そこには、貴方(貴女)自身が、その土地をどう感じたか、という視点が
含まれていないという事だ、それでは創造性も個性も感覚も何もなく、ただ単に
観光案内写真のコピーを作っている作業になってしまう。
この関西の楽しみシリーズで「観光写真、行ってきました写真を撮らない事」といつも
言っているのはそういう意味なのである。
でも、またそれが行き過ぎて、観光地あるいは旅行に行っているのに、どこで
撮ったか分からないような写真ばかりを、天邪鬼(あまのじゃく)的に撮っても、
それも面白く無い、というになってしまう。
人が撮らない被写体を撮るという行為は悪い事では無いが、わざわざなんらかの
感情や感覚や感動から完全に背を向けて、自分の靴や葉っぱの影といったものを
撮っているのも、なんだか変な話だと思う。
ある意味、その辺のバランスの取り方、つまり、完全な観光目線からどれくらい外すか、
あるいは、日常あるいは他人と違う視点、という路線からどれくらい外すか、そのあたりの
ベクトルの取り方がその人の(写真の撮り方の)個性に繋がるのだと思う。
写真をある程度やっていれば、他人と同じ写真を撮りたく無いという風に思うのは
当然の気持ちなのかもしれない。
名所名跡を撮っても、観光写真や絵葉書の方が綺麗に撮れているに決まっているし、
綺麗な花を撮っても、コンテストに出るような作品の模倣や、あるいは、説明的という
意味での究極である「図鑑的」な撮り方のどちらに振っても自らの個性は出しにくい。
日本中で何百万人、何千万人の人が写真を撮っているわけだから、そこに「自分らしさ」
とか「ワタシらしさ」の写真を撮りたいと望むのは当然なのだろうと思う。
初級者は、ある意味の、その個性である「スタイル」を早く持ちたいと悩み、
中上級者は、ある程度自分の「スタイル」が出来てきた状態で、そのスタイルを
もっと広げたいあるいは変えていきたいと悩む・・・
でも、そうやって個性の表現をずっと追い求めていける、というのが写真の楽しみの
最大のポイントなのかも知れない。
商業的な写真であれば、クライアントのニーズを満足させるという重要な命題が
あるから、ある意味撮り方や表現には制限が出てくることであろう。
しかし、アマチュアが自身の個性表現の上で撮る写真には制約は極めて少ないと思う。
結局、何をどう撮ってもいいわけだし、その個性に共感してくれるギャラリー(閲覧者)
が出てくるか、あるいは反発されるか、単にそれだけの事だ。
表紙の写真1枚で売り上げが左右される新聞では無いのだから、
アマチュア写真では利害関係なんか何も出て来ない。
けど、そういう自由な状態なのに、観光写真などを「お手本」にしながらずっと
写真を撮り続けるという風潮が未だに多いのはどういう事なのだろうか?
「お手本」が無いと写真は撮れないのだろうか? だとすれば、アマチュア写真で
最も重要なポイントである個人の個性や創造性という部分が、すっかり欠けてしまわ
ないのだろうか?
それは悪い事というよりも、「勿体無い」事なのだろうと常々思っている。
せっかく自由に写真を撮れる立場にあるのだから、「モノ」を「綺麗」に撮ること
ばかり考えずに、もっと自身の思うままに、自由に個性を打ち出していけば良いと思う。
そういう感覚で無いと、技術的に失敗しないようにとか、そんなことばかり考えて
あたりさわりの無い写真ばかり撮る事になって、もっと色々ある写真の楽しみに
気が付かないまま、長い時間を過ごしてしまう事になってしまうのだろうと思う。