京都府北部の舟屋の町「伊根(いね)」の続編である。

EMA風の「
ミララー」で捉えたこの町は、車がすれ違うのも苦しい狭い道沿いに
多くの舟屋(注:海に面した家で、車庫のように漁船等を停泊させている)を
擁する古い町である。

いくつかの映画の舞台にもなったということだが、観光地としてあまり発展はしておらず、
静かな町の雰囲気がとても良い。
前回の記事では、観光ガイドなどと同じ写真を勉強目的で撮らない、という話をした。
じゃあ、具体的には、観光地でどうやったら自分のオリジナルな、あるいは個性的な
写真が撮れるのであろうか?

この「新・関西の楽しみ」のシリーズでは、観光目線に寄らずに写真を撮る、ということを
テーマに何度も繰り返しそれを述べているのであるが・・・
・・・じゃあ、とばかりに、天邪鬼(あまのじゃく)的に、皆が観光写真を撮っている
ところで、わざと別の方向にカメラのレンズを向けるというわけでもない。
個性というのは、人と違うことをする、という意味ではなく、自分の中にあるオリジナリティや
創造性を発揮するという意味だと思ってもらえれば良い。

「絵葉書写真」というのは、よく悪い言葉として使われる。
しかし、絵葉書というのは、「その土地の魅力を1枚で説明する」という明確な
目的があるのであって、皆がその写真を見て、その土地に旅行に(遊びに)行って
もらったり、その絵葉書を貰って見る人が「ああ、いい所に行ったんだねえ」と
思ってもらえれば、その目的を達せられるのである。
「だったら絵葉書写真を撮っても良いではないのか?」
・・・うん、その通り。 私はそれは否定はしていない、でもそれは上に述べた
理由や目的に相当する場合のみの話だ。
もし貴方(貴女)が写真展に出展したり、フォトコンに出す事になったら、
絵葉書写真を撮って出すだろうか? いや、それはしまい・・ 何故なら、それでは
貴方自身をアピールできることは何もないからだ。
綺麗なのは、その場所(土地)であって、貴方の写真が綺麗だという訳ではない。
綺麗に写真を撮ること自体が技術だった数十年前ならいざしらず、
カメラの進歩によって誰にでも綺麗な写真が撮れる現代においては、
「綺麗ですね~」というのは、むしろ他に何もコメントがしようが無い写真について
言われる悪い評価だと思っても良いであろう。

で、そもそも、写真の評価なんてしようが無いのである。
写真は個性の表現、自己表現なんだ、と何度も何度も言っている。
だったら、ある人間が何か自分を表現しようとして、その人自身の人格を他に
伝えようとする、つまりコミュニケーションを図ろうとする・・ 自己紹介のようなものだ。
そうした自己紹介のその時点で「あんたはダメな人間だ」と言いようがあるのだろうか?
それを言うなら、もっともいけないことはむしろ、何も自己表現しない写真の方が
タチが悪い・・ だって、自分自身の人格を隠しているということになるのだから。
写真を人に見せるということは、基本的に自分を表現したいという気持ちと同じだ、
自己紹介の段階で、「え~わたしは、ごく普通の人間で・・」なんていうことは
無いであろう。
つまり、観光地で珍しいものや名所名跡を綺麗に写真に撮って「はいこれが私です」
というのは自己紹介(自己表現)としては、あり得ない話なのである。

だから、人の写真を見て「ピントが合っているから凄い」とか「ブレて無いから凄い」とか、
そうした技術的な評価だけをしても意味が無いのである。
技術的に難しい写真を撮ったからと言って何も偉いことは無いのだし、
逆に技術的に稚拙だからと言って下手な写真ということも無い。

現代のアートとしての写真を見ていると、もう技術的に非の打ち所が無いような
完璧な写真というよりも、いかに崩すか、いかに何らかの欠陥を持たせるか、
という部分に重きを置いているような気もしてくる。
でも、まあ、それもまたカメラを初めて持った人でも、何十年も写真を撮っている
ベテランやプロと機材的に大きな差がなく、同じ写真が撮れてしまう、という部分から
来る、一種の差別化の意味としてわざとそうしたことをやっているようにも思える。
それが良い事なのか、悪い事なのかは、なんとも言えないのであるが、
ともかく技法上の、技術的な上手下手、というのは現代の写真においては、
ほとんど無くなったように思えてならない・・・
(もちろん表現的な意味での差はある、それもいつも言っている通りである)

それは機材も同様であって、いくらボケの綺麗な性能の良いレンズを使っても、
綺麗に撮れただけの写真であって、なんら自己表現に結びつかないのであろうと思う。
(伊根編、3に続く・・)