引き続き、PENTAX FA Macro 50/2.8 と *istDsの組み合わせで奈良の街を歩く。

単純な土塀であっても被写界深度を上手く設定すると、不思議な場所に
迷い込んだような感覚を得ることもできる。
これは
前編でも言ったように、被写体は受動的に見つけるものではなく、
創造的に作り出すものである、という事である。
土塀だから面白くないから撮らない・・ では、視野が狭すぎる。
それでは結局奈良に来ても、東大寺や猿沢の池や鹿を撮るだけで終ってしまう。
・・・とは言え、他人と違う被写体を探すために必死になって天邪鬼的な視点で歩くという
わけでもない、それは個性ではなくて単に人と違うものを撮るということを自己表現と
勘違いしているだけである。

写真(映像)における自己表現とは、そこで何を見て何を感じたか、ということを
自分というものを映像(写真)に置き換えて語りかける、という意味である。
機材や技法はその表現のために用いるものであって、これを勘違いすると
「今日はマクロを持ってきているのだから、小さいものを探して撮らなくちゃ・・」と
なってしまうし、あるいはそうは思わないまでも、
「このレンズはボケが綺麗だから、うまく背景がボケるところを探して撮ろう」と
いう風に思い込んでしまう。
でも、それでは順番が逆なのである。

何を言いたい(表現したい)から、こういう風な機材でこういう設定で撮る、という
順番で考えるのが正解であって、だから、仮に同じ被写体を撮ったとしても
その人自身が何を思い、何を感じ、何を伝えたいか、によって写真はそれぞれ全然
異なるものになる。
こういう事からも、前編でも言ったように、ただ単に著名な写真家を真似て、珍しく
かつ綺麗に見える構図が得られる場所を探して撮る、というだけでは済まない事が
わかると思う。
酷い話になると、「この被写体はオレが見つけたんだ」
「オレもこの被写体は探した、だから同じ写真だ」などとなってしまう(苦笑)
「ボクも同じところで同じ被写体を撮りました、だからトラックバックします」とか
「キャ~、偶然、ワタシもそこでそれを撮ったのよ、もしかして感性が似てる?」
とか言うのは、結局、写真の表面の部分しか見えてないのだろうと思う。
仮に同じ被写体を同じアングルで同じ機材で撮ったとしても、静止被写体ですら、
絞りや露出補正がほんの少し異なるだけで表現の内容は全然違うものになる。
ましてや動体だったらシャッター速度がほんの少し違っても写真は全然別物だ、
あるいは同じ機材ではなく、同じスペックでも違うメーカーのカメラやレンズを
使えば、これもまったく違う描写、すなわちまったく違う表現になるのは当然だ。

だから写真というのは、いつでもその1枚は唯一無二のものなのである。
奈良若草山の山焼きが終って、1月下旬の若草山は丸坊主になっていた・・
「若草山が丸坊主です、珍しいでしょう」と広角でパンフォーカスで撮るのも
それはそれで表現だし、若草山を単なる背景素材にしか使わない、というのも
それはそれで自分なりの表現なのである。
マクロレンズだから花を撮る、それはそれでも結構である、
「花を撮るなら、花を綺麗に見えるアングルから撮るんだ」それはそれで表現である。
しかし、綺麗に撮るだけが表現だとしたら、それもあまりに狭い視野ではなかろうか?

マクロで花を撮るのだって、誰が撮っても同じではない、
そこには、撮る人の個性があり、表現があるのだと思う。

また、いくら優秀なボケ質のレンズだからと言って、開放でばかり撮っているのも
表現という意味では全然違うものになってしまう。
レンズの開放性能を活かして・・・ まあそれは結構な話しであるのだが、
被写体距離や撮影距離や背景の状況をきちんと考えないと、いつでも開放で撮れば
綺麗な写真が撮れる、というわけではないのである。

「大口径のレンズを使うならば絞って使うのは勿体無い・・」
何が勿体無いんだ・・(苦笑) 絞ることで表現が成り立つならば、
その表現に目をつぶって開放でしか撮らないことが、写真という意味では、
よほど勿体無い話ではないのだろうか?
表現に必要だから絞るのである、一見開放に見えるこの写真だって、
背景のボケを自分の必要な深度にするために微妙に絞っている。
別に↑の写真だけの話ではない、この記事も前の記事も全部の記事も、
絞りは開放や、ある決められた特定の(たとえば一部のマニアがこのレンズは
F5.6が良い写りをすると言ったから・・などの理由で)値だけを使っているわけでは
決して無いのである。

絞りは画質を決定する要素もあるがそれはあくまで副次的なものであって
それは優先するべきではない、優先するべきは個人の自己表現なのである。