さて、今日は和歌山県の「湯浅(ゆあさ)」まで足を伸ばしてみた。
湯浅は、醤油の発祥地であり、角長の湯浅醤油が特に有名、
そして他にも金山寺味噌(きゅうりに乗せて食べると美味しい=もろきゅう)や、
紀州ミカンの名産地でもある。
湯浅の駅を降りてしばらく歩くと、紀文(紀伊国屋文左衛門)の銅像がある。

とくに何気ない被写体であるが、広角ローアングルで精悍なイメージで。
また、この街は、熊野古道が通っていたことから、古道ファンのウォーキング
(ハイキング)が行われることもある様子だ。
10人ほどからなるウォーキングの団体が目の前を通り過ぎていく・・

この街は不思議な感じである。 なにか、歩いていても、歴史の重みというのが
感じられるし、それ以外にもなんだか目につくものが色々不思議な感覚で
捉えられていく。

どこにでもありそうなお寺も、何か不思議なオーラをはなっているように見える。

街中のノラ猫ですら奇妙な、古(いにしえ)の猫のようなイメージが・・(汗)

街灯すらも、21世紀の現代でもなく、また、どうも日本のどの文化からも
少し外れたような印象が・・

あるいは、倉庫ですらも・・

このような街の感覚をいったいどのように捉えたらよいのであろうか?
前回の和歌山編では、何も無い街、として黒江を取り上げた。
でも、何も無いというのも実際には失礼な話であって、何も無いというのは、
たとえば、観光目線で写真を撮るならば、という条件の下での話である。
実際には黒江は十分に魅力的な街であり、私自身数年前に来ているのに
また前回も、仮想キャラ、霜月、森田のスタンスを借りながらも、ふたたび
フラリと訪れてしまったのである。
何か綺麗なもの、有名なものを自分のカメラに収めたい、というのが観光目線の
写真であるなら、別の側面としての写真は、そうした観光的な要素がたとえ何も
なくても、その街の雰囲気とか文化とか歴史とか、そうしたイメージを捉えたいと
思うのも写真の楽しみ方なのだろうと思う。
湯浅は、黒江とはまた違って、観光地的なものがほとんど無いのは同じであるが、
別の視点から見ても、その土地独特の雰囲気が歩いているだけで伝わってくる
街であると思う。
だから、その街のどこに感じて、何を見てシャッターを切るかは、それこそ
その人その人によって千差万別、ある意味では、初級者には最も難しく、
また、ベテランにはとても面白く感じる街なのであろう。

実際、この「新・関西の楽しみ」シリーズで毎回書いているのは「観光目線に寄らない」
写真を撮ることについてであるが、そのコンセプトは、けっして「アンチ観光写真」、
という事ではなく、観光目線では無い写真というものがどういうものなのか、
あるいは、そういった楽しみ方が、写真の楽しみの1つとして、明らかに存在する
という事をわかってもらいたいわけなのである。
良く言う「絵葉書写真」という比喩、それは、別に絵葉書の撮り方をけなしている
わけでもなんでもない、絵葉書には、それを見る人にその場所に行きたくなるような
写真、という立派な作画意図や明確なターゲットが存在している。
ただ、絵葉書のような写真、というと、今度は悪い面、すなわち、
創造性や個性が欠如した写真、誰に見せたいのかがはっきり決まっておらず
ただ自分がそこに行ってきたという事を示したいだけの自己視点の写真、といった
ような意味で言われる事もある。
しかし、だからと言って、観光地に行っても、木の葉ばかり撮っているとか、
影ばかり撮っているとか、「どこで撮っても同じ写真」というならば、それは
それで「アンチ観光写真」を意識しすぎたあまりの結果になりかねない。
それでは個性というよりも単に天邪鬼(あまのじゃく)になってしまう。
ある場所に行った時に、その場所でしか得ることができない雰囲気や文化のイメージ
や、そんなものに、自分が感じた感覚を掛け算して得られる結果を、写真という
映像にまとめていけば良い、というのが本来の写真の楽しみ方なのであろうと思う。

漁港があれば、漁港にある船を撮れば良い。
ただ、それは「これが湯浅の漁港ですよ」という風に説明的に撮らなくても良い、
証拠写真では無いのだから、湯浅の漁港に行きました、ではなくて、湯浅の漁港で
私はこれを見てきました・・(そして、だから△△だと思いました)という風に
撮るのが写真の楽しみなのだろうと思う。
同じ被写体を見ても、だから感じ方も、撮り方も、何を表現したいのかも千差万別、
それを個性ということもできると思うし、そもそもどの被写体に注目して何を
感じたかということ自体、無限に存在するのであろうと思う。

(後編につづく)