さあ、問題撒き散らしの(苦笑)バトンシリーズ第三弾

テーマ3:直感的『写真』
・・・をいをい、このテーマで何を書けというのだよ?(苦笑)
たとえば、大学入試なんかでは、できるだけあいまいなテーマの論文の問題が出たりして
それを書く人の文章力とか想像性をチェックしたりする。
数学や物理の問題のように、答えが1つというわけでは無いわけなのだが、
まあ、それはそれで試験とかの内容としては意味があると思う。
また、少し前に某フィルム会社が自社の製品だかのモニター企画をたてたとき、
同様に写真についての論文を書いて応募する、という方式だったと聞くが、
それもそれで意味があるであろう。
そもそも、自由記述形式の表現の場合は、いかに創造性を膨らませつつ、自分なりの
ストーリーや論旨を展開できるか、という部分が重要になってくるのであろう。
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たとえば、A社のこのレンズと、B社のそのレンズのどちらが良いのか?
こういう設問にはできるだけ感覚を排除して客観的に答えなければならない。
従来の考え方なら、開放F値はどっちが明るくて、最短撮影距離はどっちが短くて、
歪曲収差はどうで、MTFや解像度がどうで、カラーバランスがどうで・・
これらは全て数字で表せることができる、自分の考えや評価なんか、何もしなくても良い。
それで、レンズのボケ味とかは感覚評価、数字で表せないからな。
ところが、MTFがどうのこうの、って言ってきた数字だけの人達は、こういう部分に
なると、とたんに口をつぐんでしまう。 そこには自分の主観的な意見を言わない限り
話ができないからであり、じゃあ、何故「このレンズのボケは綺麗だよ(良いよ)」と
言わないかというと、世の中には、必ずそうは思わない人達がいて、「そんなこと無いよ」
という議論になってしまう可能性があるからである。 自分の主観であり、ある意味、
各自の好みだからそういう面もあるだろう。 そもそも被写体条件もまともに決めなければ
単に「ボケが良い」とか「悪い」なんて評価も議論も成り立たないのであるが、それ以前に
もし自分の意見が大多数の人に支持されない場合・・ そんな状況を恐れて、彼等は
何も自分の評価を言うことができなくなってしまうのである。
あくまで、オレはこうだから、こう思う、という風に自身の感覚や価値観を貫けば
良いのであるが、あいにくそんな人は、全カメラ人口の 0.01%もいないであろう。
「(有名な)誰かが、こう言っていたから・・」
・・・ヲイヲイ、だからそれが正しいのかいな? 貴方はどう思うんですか?
同様に、私が色々なアドバイスすると、ちょっと反論されることもある
「本(や雑誌に)こう書いてあったから・・」 「ネットで評判が悪かったから」
「(写真)の師匠がこう言ったから・・」などがある。
・・・だから~、だったら、貴方(貴女)は、どう思うんですか?
それが匠の言っていることと同じだったら、両者を支持して、ちがっていたら、
自分でどうしたらいいのかわからなくなって迷うんですか?
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・・・最近の人達は自分で考える力が極端に落ちていると聞く。
女の子とデートに行くにも、タウン誌や情報誌を買ってきて、そこに出ている有名なお店、
場所や、デートコースを調べて行くと聞く。
しかし、残念ながらそういう情報は若い女性の方がはるかに詳しい、
付け焼刃で、男の子がデートコースを調べて行っても、陰で女の子に笑われているのが
オチである。 事実、そんなような話はいくらでも聞くし、もし、そんな「お決まりコース」
のデートをしようがものなら、残念ながら、女の子から見た男性の評価ポイントは、一発で
限りなくゼロに近い状態まで落ちてしまうのである。
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・・・写真の表現、ここには何らかの創造性が必要である。
時速200kmで走るレースカーやバイクや新幹線を、何mの距離から、何mmの焦点距離の
望遠で、何分の1秒のシャッター速度で流し撮りをする・・ それは純粋に正解があって
あとは、その正解に近づける動作をきっちりできるかどうか・・
あるいは、何mmの望遠レンズで、何分の1秒のシャッターでも手ブレしないかどうか、
それらを技術と言っている。
J・Sバッハの平均律クラヴィア曲集があって、その第何番の何長調を、楽譜通りに
間違いなく弾けるようにする。 それも正解に近づけるために練習を行い、弾けるように
なれば演奏技術がついたと言う。
で、世の中の恐らく95%以上のカメラマンは、まるでピアノやエレクトーンで次ぎの
課題曲が弾けたら上手くなったと思うように、流し撮りや手ぶれがしなくなれば、
「上手になった」と勘違いしてしまう。
・・・ちゃうねん、そういう技術はあくまで基礎にすぎないんだよ。
ピアノやエレクトーンの発表会に行って聴いたことがあるだろう?
大人や子供の生徒が、楽譜通りにきちんと曲を弾けるようにして発表している。
それ聞いていて面白いか? それはいったい音楽なのだろうか?
彼等は、ピアノのペダルを使ったりすることを禁じられて事もあると聞く。
ペダルを使って、音を伸ばしたたり、弱くしたり、するようなのはエクスプレッション
(表現)である・・ それ(曲想表現)を禁止してどうなるのであろう?
「まだ基礎ができていないから・・・」そう言う話もあるかもしれない。
・・・へえ、だったら表現をすることも禁じられてしまうのかいな?
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「写真で何かを表現したらどうなの?」
「・・・いや、まだ、基礎が身に付いていないから・・」
・・・まあ、一見もっともらしいのであるが、最初のレンズの評価の話と同じことであって
数字で表されるものとか、結果が目に見えてわかるものとちがう、答えがいくつもあるものは
マイナス評価が怖くて、自らそれができないだけなのではなかろうか?
「いや、オレは写真で自己表現したいわけじゃない、楽しくやっていれば良いんだ・・」
「そうそう、まずは流し撮りくらいの技術を身に付けないと、表現なんかできないよね・・」
・・・へえ、だったらバッハが終ったら次はショパンかいな?
ショパンが弾けるようになったら、次ぎはリストか?
そりゃあ、難曲が弾ければ上手くなったと思うかもしれないよ・・・
・・・でもなあ、それじゃ、いつまでたっても単に楽譜を演奏しているだけで、
音楽の「お」の字の領域にも到達していないのではなかろうか?
だいたい、ショパンやリストが弾けるようになるのは、相当の練習量をこなさないと
ならない、たしかにそういうレベルでも「楽器演奏を一生の趣味」として、ずっとずっと
難曲を練習しつづけることもできるかもしれないよ。
でも、それじゃあ、音楽のごく一部の世界しか見ていないんじゃないのか?
せっかく音楽をやっているのに、それじゃもったいないだろう? 何も残らないし
何も得ることができないよ。
・・・写真だって同じだよ、世の中の95%がそうだからって言って、ずっとずっと、
流し撮りや、人間手ブレ補正や、ノーファインダー撮影や、カンの露出値撮影の練習を
しつづけるのか? それで何が残るんだよ? そんなのカメラを扱う技術的なものの
それもごくごく一部のことだけじゃないか?
「わかった・・・実はその通りだ、ただ、オレはセンスが無いから、表現とか
そんなことはできない・・・」
・・・次はそうくるよね、センスだとか感性だとか直感とか想像力とか、いきなり数字や
理屈がまったく出てこない世界にワープしてしまう。
・・・でもな、そんなに極端に違う世界なのだろうか?
創造性とか想像力というのは、たくさんの経験からも来ることだ、と良く言っているだろう?
写真にしても、音楽にしても、ああ、この写真はいいな、とか、この音楽は良いなとか・・・
あるいは、直接写真ではなくても、ドラマや映画とかの映像を見て感動したとか、
さらには、ある景色を見たりして、その時に同時に持っていた感覚・・たとえば新婚旅行で
や初デートで行った思い出の地とか、小さいころに生まれ育った懐かしい風景とか・・
そんな沢山の記憶や経験を、誰しも持っていると思う。
・・・表現とは、そういうのを、写真や音楽に込めていけばいいだけの話なんだと思う。
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「ふむ。わかったような気がする・・・ で、「直感」とは何ぞや?」
・・・知らんよ、そんな事は。
辞書を引いて意味を調べて定義する・・ そういうのは論理指向に偏りすぎ。
「直感」は「直感」だからフィーリングだよ・・ そういうのは感覚指向に偏りすぎ。
そんな答えを出してきても、議論にも意見にも何もならないだろう?
・・・で、私が思うに、それは連想や創造性を発揮させるためのトリガー(引き金)なの
ではないだろうかと思う。
たとえば、ある被写体を見て、なんらかの自己の経験や記憶とてらし合わせ、
そこに何らかの作画意図を持たせたいと思うプロセスがあったとしよう。
そもそも作画意図を持った写真を撮ることを拒否してしまうレベルは、前述の通りで
数字で表せないことをやったときに、それがマイナス評価される事を恐れる状況である。
楽譜通りに弾かないと先生に怒られるし、音楽を聴いている人に「なんじゃそれは?
テキトーに弾きやがって」と思われることを怖がってしまう。
作画意図を持たせたいけど、どうやったら良いのかさっぱりわからないというレベルは
どういうプロセスで思考を展開するか、というその部分の経験がまだ足りないレベルである、
楽譜通りに弾くんじゃなくて、自分なりの音楽をしたいけど、楽譜以外の弾き方が
わからないという事である。
沢山の経験からの想像力、連想力を使えばよいことはわかっていても、なにも思いつかない
というレベルでは、ここではじめて「直感」が必要になってくるのではないのだろうか?
弾はこめた、火薬も詰めた、目標もはっきりしている。 でもそれだけでは何も起こらない、
自分の中で、引き金を引いてやらないかぎり、何も変化はしないのである。
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じゃあ、直感を得るにはどうしたらよいのだろうか? それは、たとえば被写体を見たら
素直に自身の体験や記憶を引き出す、すなおな喜怒哀楽の感情、心ではなかろうかと思う。
自身の体験してきた過去を苦に思う人もいるかもしれない。
そういう人は、過去の経験を思い出す事を極端に嫌ってしまう。
また、あるとき、とても辛いことがあって、たとえば人生のなんらかの失敗や不慮の事故・・
そんな時に過去の経験を思い出すのは確かに辛い・・
だからそんな時は写真も撮れなくなってしまう。
平気で撮れる人は、それを超えてまで写真を撮りたいという強烈な精神力を持っている
人か、あるいは逆に、いつも全く何も考えないで写真を撮っている人ではなかろうか?
ただ、まあ、普通は写真を撮るのは平常な精神状態で撮るのだから、ある意味そんな
不幸なシチュエーションの場合は考えないでいいだろう。
だから、写真を撮るとき、あるいは選ぶとき、それで何かを表現したい、という気持ちが
あれば、そこに自分の経験や記憶を直感で引き出し、なんらかの創造性を加えてそこに
作品をや表現を作り出せるはずなのである。
もし、それができないのであれば、もしかしたら、人前で歌を歌うのが恥ずかしいように、
本当はバッハの曲だって自分なりにアレンジして弾けるのに、人前でそれをやるのが
極端に恥ずかしい、というようなパターンなのかもしれない。
要は表現することは、自分の中をさらけ出すのだから、それを恥ずかしがるというのは
あるかもしれない。
「なんだ、アイツまた失恋したのかいな? 写真みたらすぐわかるぜ・・」
「楽しさを表現したいのに、デパートの屋上の遊園地かいな、しけてるなあ・・」
・・・でも大丈夫、そんなひねくれた見方をする人の方がむしろ少ないのである。
カラオケで歌が下手でも、「あいつヘタだなあ」と言いながらも、周りの皆は笑って
楽しんでくれるのである。
そりゃあ、自分が歌が上手いと思っているのに、回りの人が聞いたらそうでなければドッ白け
になったりすることもあるし、逆にあまりに緊張して真剣に歌おうとしているけど、あいにく
ヘタな場合も、まわりはどう声をかけていいか悩むこともあるけど、
いずれもそうやって自分の世界に閉じこもらないかぎりは、カラオケでコミュニケーション
がとれるようになるのは、これは周知の通りである。
・・・同様に、写真の自己表現なんかもそんなことなのである。
「オレは歌が下手だから、カラオケはイヤだよ、絶対にだめだ」
・・・実は私も、ずっとそうやって歌を逃げていた。
楽器を無茶苦茶練習したのも、当初は歌が下手だったのが理由である。
「オレは写真で自己表現するのなんてイヤだよ、センスないから、絶対だめだ」
・・・だから、流し撮りの練習を必死にするのも、レンズを沢山買い集めて本に書いて
あったような数字や誰かの評価を丸暗記するのも・・・
結局それって、同じことじゃないの?
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「自己表現をするのが怖くて写真が見せれなくなった」
「オレはバリバリの窓派だから、自己表現なんかしなくてもいいんだ」
「色々考えて撮っても上手くならない、何も考えずに撮ればいいんだよ」
「匠がいつもゴチャゴチャ言っているから、やりにくくなった」
・・・そうなのか? なんかどれも変な話だ。
・・・それらは、あくまで自分自身の認識の上での問題なのでは?
色々試して、色々挑戦してみて、ちゃんと人前で歌も歌って、
それでもやはり上手くいかなかったら、才能が無いといじける前に、なんらかの足りない
部分があったと思って、また新たなる挑戦をしたらいいじゃないか。
理屈とか感覚とか、そんなことに偏りすぎて、自分自身の可能性に自ら枠を作って
しまったら、写真に限らず、何事をやっていても面白くないであろう。
100mmレンズを1/20秒で手ブレせずには練習したら撮れるようになるかもしれないが、
1/5秒で手ブレしないように撮るのは、いくら練習してもほとんど不可能である。
技術を極めるには限りがあるし、あるレベルを超すためには超人的な努力が必要となる。
押尾コータローの超絶的なギターにあこがれてそれを弾けるの目指すのはいいが、
その曲が弾けても貴方(貴女)は押尾コータローには絶対になれない。
技術をいくら極めても、それは有限の話であり、かならずあるところで行き止まってしまう、
そして表現には限界は無い。 無限の広がりがそこに存在している。
それを知らずに写真を続けていくことは、「いけない事」なのではなくて、
「大変もったいないこと」だと思えば、すべての問題点は氷解していくことであろう・・・