夢舞台・・ いいネーミングの場所である。
先般、
淡路の花の撮影の記事を書いたが、今回はその続編。
淡路島は昨年末にも行っているのだが、これは近年、明石海峡大橋を通る高速バスが
整備されてから、大阪方面からも大変行きやすくなったのもひとつの理由である。
明石海峡大橋のあるJR(または山陽電鉄)の舞子は、大阪からは1時間以内で到着
できる場所であり、そこから淡路島までは、バスで25分(直通なら16分)、料金は500円
とクイックで、かつリーズナブル。
到着する場所は、「夢舞台」と言われるホテル・植物園・公園などの複合施設であり、
例によって安藤忠雄氏の設計によるコンクリートの建物が威容を誇っている。
安藤建築は好きな人は好きなのであり、まあ、私も被写体としての魅力は感じるが
実用性はどうなんだろう?と思ってしまうことも良くある。 関西には多くの安藤建築が
存在して、色々なところで目にする。
そういえば、大阪の梅田で撮影中、撮影仲間が「あ、安藤忠雄だ」と叫んだことがあった、
「どれどれ?」とそちらを見ると、すでにかなり遠くを歩いている後ろ姿・・残念・・
安藤氏は大阪を本拠としているので、まあ、そういう事もあるだろう。
で、実際にその安藤建築の施設を利用すると、階段が多く、迷路のように入り組んでいて、
長い階段をずっと登っていくと、いきなり行き止まりになるような事も多々あり。
ヲイヲイ・・ と思ってしまうこともある。
まあ、建物というよりは、一種の芸術的な建造物であるから、そこらへんはしかたないの
かもしれない・・・あまり書くと安藤ファンに怒られるかもしれないが(汗)、健常者でも
数多くの階段は足に負担が大きく感じるので、建物の中をくまなく歩いているとマジに
疲れてしまう・・ 当然スロープやエレベーターなども整備されているが、それらを使うと
大きく遠回りになったり、あるいは美味しいところをショートカットするなどで、結局多くの
部分を階段で移動しないかぎりは、安藤建築の醍醐味を味わえないところは少々残念な所。
さあ、でも、まあ気に入って続けて遊びに来ているのだから、ブツブツ言わないで楽しんで
撮ることにしよう(笑)
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今回は、加工処理を加えた写真を中心としている。
その場で感じたイメージを反芻してそれを膨らませる後処理を加えているということである。

↑①「見えない風景」GR Digital ノーファインダー
この景色は地上高2mちょっとのところにあり、ノーファインダーのカメラでないと
見えないところが、なんとも面白い。
ここは、ベッカムが泊まったことでも有名なWESTINE HOTEL から植物園に向かって
歩いていく通路の途中のところであるが、かなり大きな水の流れる音がするだけで、
人工滝、兼、光を取り入る窓の景色は見えない程高い位置にある。
以前来た時から気になっていたのだが、今回はノーファインダーで、その窓から
どんな景色が見えるのか探ってみることにした。 まるで潜望鏡のような撮影であるが
目で見えているものを撮るだけがカメラの役割では無いことを実感する。
そこからどんな景色が見えるのだろう? そんな事を想像して手をいっぱいに伸ばして
撮影する・・ あと100年くらいしたら、カメラは自由に空を飛んで、好きな位置
から好きなように撮影することができるようになるのかもしれない・・(笑)

↑②「奇跡の星の植物園」 *istDs+ FA50/2.8Madro
この植物園も面白いネーミングである。
なので(?)花の撮り方も、一工夫こらして撮ってみる、被写界深度の浅さを逆に
利用して、通常なら狙わない場所にピントを当てての撮影。

↑③「食事は辛いよ・・」 GR Digital Macro
夢舞台の弱点は、食事である。
閉鎖空間でレストランの絶対数が不足、料理はどこも高価で平均予算1500円以上・・
しかも混んでいて12時を回ると30分待ちはざら・・(汗)
思うんだけど、女性2人または3人の組み合わせで食事に非常に長い時間をかける
人達をよく見かける。 それは、平日の会社勤めの際の昼食で12時から13時直前まで
時間を目一杯使う習慣が身に付いているからであろうか? 食事後も、なんだかんだ
話をしてかなり長時間粘っている。 もちろんヒマなお店やらだったら、そんなことは
別になんて事ないのだが、その調子で、外にズラりとお客さんが並んでいる(だろう)事
にも気がつかないで長時間テーブルを占拠する、というのはやって欲しくない。
おまけに会話が弾んでいるのか、あたりに響き渡るような大きな笑い声や話し声・・
そんな姿を見ると、私としては、その女性がどんなに美しく、どんなに可愛いかろうが、
あるいは1人でいるときは清楚な雰囲気だろうが、いっぺんに魅力を失なってしまう。
多くの女性を敵に回す発言かもしれないが、かまわない・・ 周囲への気配りを感じる事
ができない女性は、はっきり言って多くの男性から見た魅力は限りなく乏しい・・・
別に夢舞台に限らないが、梅田(大阪)あたりでも私が食事をしようと1人で席に座ると、
その時点ですでに食事を終えている若い女性の2人組が隣のテーブルに・・・
彼氏がどうのこうの、とか言う話を大声でしている、などの状況を大変多く見かけるが、
いいかげん横でそんな話を聞かされながら食事をしていても不味くなるばかりなので、
早々に食事を終えて会計を済ましている間に、外の沢山の人が並んでいる様子を見たり
すると、ああ、正直、その女性の彼氏はとても可哀想だなあ、とマジに思う。
こういうのは間接的なマナー違反である、お店の人も早々に食器を下げてしまえば良いと
思うのだが、彼女達もしたたかなもので、故意か偶然か、料理の一部を残していたり
するのだから困ったものである・・(苦笑)
良く言っている写真撮影でのマナー違反の例もあるのだが、最近の日本人はどうのこうの・・
などと説教じみた事は言いたく無いまでも、そうした無神経さは、見ている方だけが
腹立たしく、本人達はケロっとしているところが、さらに癪にさわるのである。
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さて、そんな事よりも、写真の話をしなければならない(笑)
次は温室での撮影である・・

↑④「ピクトリアリズム(絵画主義)」 *istDs + FA50/2.8Macro
(これはちょっと、EMAさんっぽいか・・・? 笑)
写真が普及しはじめた150年も前から、写真とは見るがままに写すものである(自然主義)と、
いや、絵画のような表現をするものである(絵画主義)の流派による激しい議論がされて
きたと聞く。 写真史を少し読んでみれば、そんなことはどこにでも載っているのだが、
さすがに現在ではそんな論議をすること自体不毛なことであろう。
何故ならば、それからすでに非常に長い年月が過ぎ去り、論議の焦点はもっと別の
次元での話に到達しているからである。
たとえば今から30数年前、「カメラには、絞り優先とシャッター優先と、どちらのAE機能
が正しいか?」などの論議が行われていたと聞く。 現在、そんな議論をする人を聞いたこと
が無い。当然ながらそれらは両方、それぞれの状況において必要な機能であるからである。
今の世の中で「写真とはあるがままに撮るべきだ」なんて言葉を口に出したとたん、
「19世紀の話か?」と笑われてしまう・・ 要はそうしたければそうすれば良いだけの
話であり、様々な技法を使いたければそうするだけの事、それらは「表現」という目的の
ためのそれぞれの手段にすぎないわけであって、あるがままに撮る事がだけが写真の
目的では無いのである。 目的と手段を混同してはならない事は言うまでも無い。
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作例の写真は、シュ(-)ルレアリズムのイメージを作り上げている。
シュ(-)ルレアリズムって何?などとイチイチ聞く無かれ、今の世の中、PCに向かって
検索エンジンに知らない言葉を入力すれば、たちどころに無数の回答が検索される。
現代人に取って、知らない言葉、というのはありえないのである。
質問をする前に、まずは調べる。 それが現代の情報社会での常識であるが、また同時に
情報は水と同じでタダで手に入る、と思うのも勘違いである。 それも数十年前の過去の
感覚であり、現代の情報産業というのは、情報ヒエラルキー(知っている人と、知らない人の
差)を利用して第三次産業すなわちサービス産業が成り立っている事をよく理解しなければ
ならない。 貴方は様々な情報を得るためには、基本的は自分で相当の努力をするか、
あるいはそれ相応の対価を支払わなければならないのである。
すなわち 検索エンジンすらも上手く使いこなせない人にとって情報を得ることは困難な事
なのであり、そこに情報ヒエラルキー(=格差)が存在している。
たかが検索エンジンごとき、というなかれ、ただ単にキーワードを入れればすぐに答えが
見つかるわけでも無いことは、数万という検索結果が得られた時点で、そこからの個人の
データマイニング(=探索する)能力の差が結果的に大きな差となることは明白に体験して
いる事であろう。 もちろんキーワードの選び方自体が情報社会での大きな技術となる
わけである。 情報の価値をあまり低く見ることは、「なんだ、そんな事すらいちいち
人に聞かないとわからないのか?」と、その人個人の評価をも低めてしまう事も多々ある為
現代の情報社会では非常に注意する必要がある。
幸いにして拙ブログでは皆無であるが、読者の皆さんも、様々なブログで、あまりに
安直な質問のコメントに対し、ブログのオーナーが丁寧に答えているシーンを見かけること
があるだろう。その時に、どう思うか? 安直な質問をした人のブログにまで出かけて
わざわざ見にいきたいだろうか? いや、そうではなく、いやがらずに丁寧に答えた人へ
尊敬の念を抱くに違いない。 後者のブログオーナーは情報社会での評価ポイントを高め、
安直な質問をした前者は、ポイントを自ら貶めているように思えることは明らかである。
私も、いつも「知らない事は恥ではない、単にスタート時期が違うだけ」と言っているが
それは必ず「知らない事を自ら理解しようと努力する事」が必須条件なのである。
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さて、大幅に脱線した(汗) 夢舞台撮影の続きである。

↑⑤「階段も滝なの?」 GR Ditial ノーファインダー
目の前一面に広がるような大きな階段状の滝がある。
当初、一眼でスローシャッターで流れる水の雰囲気を出そうと試みた。
水の流れというと、短絡的にスローシャッターと思ってしまうのであるが、数十年前の
風景撮影技法ならいざしらず、そんなシルク(絹)のように水のが流れる写真は今時
なら、いくらでもころがっている。 珍しいか、そうでないか、という前に、そもそも
そこで何を表現したいのか?と考えてみると、シルクのようなスローシャッターの水でも
何も表現したい意図が無ければ、ボツ写真でしか無いのである。
1/15秒前後のスローシャッターでも手ブレをしないように技術の限りをつくしながらも、
そんなボツ写真を数枚撮った後で、デジタル一眼のモニターを見ながら、何の意図も
無い写真のつまらなさを再認識し、撮った画像を次々に消去した・・
デジタル一眼をカメラバッグにしまい、コンパクトを持ち出して、今にも水に落ちそうな
状況まで身を乗り出し、滝の圧倒的な重量感、水圧、水しぶき、そんなのを感じながら
ノーファインダーで写真を撮る。
結果、構図は傾き、アンバランスなものになったが、この方がずっとスローシャッターの
水の流れよりも意図したイメージが伝わると思って、これで良しとした。

↑⑥「夢の夢舞台」*istDs FA50/2.8Macro
ノーレタッチであるが、そんな事はどうでも良い。
よく、作品に「ノーレタッチです」と書いてあるのを見かけるが、じゃあ、それで
何を言いたいのであろうか? ノーレタッチだから偉いのか? ノーレタッチだから撮影
技術が優れているのか? ・・それもまた、目的と手段を混同しているのではないだろうか?
目的は表現であって、レタッチをしないでトリッキーな写真を撮ることでは無いであろう。
別にレタッチをしようがしまいがかまわない、要は自分が表現したい映像を作り出せば
良いのだから・・表現したいことが無い状態では、いくらレタッチをしても何も生み出せない。
むしろ、「ノーレタッチ」で、たまたま個性的な写真を撮れたと言うほうが、意図せずに
偶然そうなってみたいで、ちょっと示しが悪いのではなかろうか?

↑⑦「夢の入り口への誘い」 *istDs FA50/2.8Macro
上手な人と同じ写真を撮ろうとして、やれ絞りはいくつにしたのだ、とか、露出補正は
どうしたとか質問をする人がいるが、それもやはり無意味な事である。
絞りによる被写界深度の変化は、同じ被写体であっても撮影距離が数cm違うだけで
大きく変化する。 シャッター速度は、こうした静止被写体であれば、別に1秒であろうが
1/100秒であろうが、1/1000秒であろうが同じ写真になることは明白だし、そもそも
その状況の明るさが違えば、露出すなわち、シャッター速度や絞り値やISO値は変化して
当然であろう。
写真の目的は表現であるが、それを実現する技術、技法においても、単に操作や
設定数値を追い求めることと、表現の為の原理原則を理解することは大きな違いである。
この花のこちら側に向いた、下向きの三角形とその下の舌のようなツルの部分、これらが
被写界深度内に収まり、他はアウトフォーカス(ボケ)になるような設定にする事が
この場合の作画意図に対する、作画表現の技法である。 構図やアングルや露出補正も
すべては、作画意図を実現するためにある。
すなわち、いくら構図や絞り値や露出補正を同じにしても、その写真の撮影者と同じ気持ち、
すなわち作画表現は得られないのである。
この事に気が付くためには、下手をすると膨大な時間を無駄にしなけれればならない、
以前話をした事があるが、私も有名な写真家と同じ撮影場所、同じアングル、同じカメラ
設定で写真を撮って練習した事があった。 けど、その写真家が何を考えてその場所で
写真を撮ったか、なんてことは、何年もそんな事を続けても、ずっと気が付かない、あるいは
そんな事(作画意図)が必要だ、って事さえ気が付かなかった。
技法、すなわち撮りかただけは、多少は上手くなっていった。 けれど、どんなときに何故
その技法を使わなければならないかは、そのままだったら永遠に理解することは
できなかった事だろう・・すなわち目的が無いままで手段のみを鍛錬していた事に
他ならないからである。
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世の中には(写真の)目的があっても手段がわからずに苦労している人も沢山いる、
また目的というのが漠然としていても、なんらかの表現をしたいと考えている人も多くいる、
逆に、手段(知識、技術、機材)はどんどん揃っていっても、目的が持てずに悩んでいる
人も多い。
前者の大半は女性であり、後者の大半は男性であるが、現代では一概にそうとも言えなく
なってきている、メカものが非常に普及しているこの21世紀の世の中であるからこそ
男性でも、そのメカに興味を持てない人も多く存在するし、女性でも異様にメカに興味を
持つ人も多く存在する。
まあ、単にメカの話に限らないのであるが、いつも言っていることながら、論理的思考と
感覚的思考の共存は、本当に難儀な話であると思う。
この両者をうまくバランスできる人だけが、写真を極めていく事が可能になるのでは
なかろうかと痛感している。 別に両方飛びぬけた才能を持たずとも、それはかまわない、
ともかく両者をバランスしていくことが肝心なのであって、
もういまさら、センスだけで写真を撮るとか、高級機材の力を借りて写真を撮るとか、
何十年も写真をやっている経験で撮るとか、そんな事は言って欲しくない。
どんな状況においても、どんなにセンスが優れていても、良い機材を持っていても、
貴重な経験を沢山持っていたとしても・・ いずれの場合でも常にメンタル面での
バランスを保ちつつ、より良い結果(表現)を出そうと考えていくのが写真の奥深さ
であり、ずっと長く続けられる趣味(あるいは職業としてもこの場合は可)なので
あろうと思う。
ある意味、他のジャンルに比べて、写真を選んだ事は幸せな事なのかもしれない・・
写真は、個人の表現したい事を伝えるための、まさに「夢舞台」なのだろうな、と思った。