意外に好評な(笑)、悩み相談室シリーズである。 例によって超長文(汗)
よほど時間がある人でなければ読む必要は無いと思うし・・
「オレには悩みなんかないから関係ないよ」と思ったら、途中でも読み捨ててもらえば
結構である。

Q8:何故、写真は自己表現が必要なのか?
「匠さん、ほんとうに悩んでいるんですよ・・・」
・・・ん? どうした?
「何で、写真に自己表現が必要なんですか? そこがわからなくて・・」
・・・う~ん、そこまで遡るか?(汗)
まあ、しかたない、自己表現の必要性を明確にしておかないと、そもそも作画意図を
何故考えなければならないか? とか、では、作画意図を実践するための作画表現とは
どうするんだ? とか、その表現をするために機材や技法をどうするか・・とか、続く
考え方が全部崩れてしまう。
つまり、一貫した考え方が持てなくなると、また最初の段階に戻って
「そもそも私は何のために写真を撮っているのだろう?」とか思い悩んでしまって、
酷いスランプに落ち込んだり、あるいは、写真が撮れない、だとか、ブログに載せるのが
怖いとか・・ そんな風に悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。
そんな事は、当然私としても望まないし、たくさん書いてきた記事も全部無駄になるし、
多くの読者の人達に対しても失礼だし、それは大きな問題だ・・・
中には「何で、たかが写真撮るのにそこまでごちゃごちゃ言うんだ?」という意見も聞く、
けど、世の中にはもっと自分自身の行動原理を突き詰めて考えないと納得できない人も
多々いるんだし、その悩みやニーズを否定してはならない。
何もかもわかっていれば問題ない、悩みがなければばむしろ幸せなこと、
何でもポジティブに、あるいは楽天的に考えれる人は、自分が好きなようにやれば
いいだけの話である。
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自己表現とは・・? ただ、この問題は、結構、根(ね)が深い。
いちばん深い部分というのは、人間の根本的な欲求になるから、心理学者でも無い限りは
明快に説明する事は難しいのかもしれない。
でも、まあ、できる範囲でやってみよう・・
まず「写真を撮る」ということ。
これが自分自身の中で完結している間は、どんな写真を撮ろうが、どんな撮り方をしようが、
そんなのは他人の知ったことではない、好きなように撮ればいいだけの話。
でも、だんだん撮り続けていくと、自分はある程度上手くなってきた、だから、写真を人に
見てもらいたい、とか、評価して欲しい、とか、できれば、そういう社会的な場の中で、
人に認められたい、とか、そんな欲求が出てくる。
とは言え、ほんの数年前までは、発表の場なんてごく限られた範囲しかなかった、
1つは、コンテストである。 沢山写真を撮って、その中から選び、写真誌とか、専門誌、
あるいは、カメラやフィルムメーカー主催、新聞や自治体の主催、などのコンテストに
応募する、その中で認められば、雑誌などのメディアに作品や自分の名前が載ったりする。
これは社会的な名誉でもあるので、当然多くのアマチュアあるいはプロ志望のカメラマンは
積極的にそういうコンテストに出品していただろう。
2つ目、個展や写真展である。 勿論そういう機会に恵まれれば、お金もかかり、準備に
多大な労力も必要になるが、1週間程度の写真展に出展すれば、多くの(?)入場者が、
来てくれて感想を述べたり、あるいは、もしかしたら誰か偉い人に認められて、美味しい話も
降って沸いてくるかもしれない。
3つ目、写真集などを出版する。 まあ、これは昔だったらとうてい不可能だった事かも
しれないが、DTP出版やらの普及で、低コストで自費出版も可能になってきつつあった。
4つ目、すでに10年ほどまえから一般に広く普及してきている、HPを開設する。
これも、まあ不特定多数の人に自分の作品を見てもらえる場として有効に活用されてきた。
5つ目、写真教室や写真学校。 もちろんこれは実践的に講師の先生などから、
細かい講評を聞くことが可能となる。
けれど、それぞれには、それぞれの問題点もある。
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「ん? 何が問題なの? どれも立派な写真活動だと思うけど?」
・・・あまりネガティブな事は言いたくないのであるが(汗) 事実は事実として客観的に
述べよう・・
まずは、1)コンテスト これは、どうしても審査員の好みに依存する部分があって、
コンテストを通すためのテクニックみたいなものが存在する、だから、入賞できる人は
数多く入賞できるし、その審査員の好みの傾向に合わせて写真を撮っていては、
そもそも自分が何の為に写真を撮っているのか、わからなくなってしまう。
2)の写真展。 グループ展ならいざしらず、個展は経済的にも時間的にも労力がかなり
大きく、かつ、一般的なギャラリーでの展示では、平均的な1週間の開催期間において
無名の個人の場合、入場者数は、数十から、せいぜい500人迄である。
おまけにたとえば、その中で(まともな)感想をノートやアンケート用紙に書いてくれる人は、
1割にも満たないかもしれない。
ちなみに、平均的なブログでは、1日の訪問者数は数十人である。
ある程度長期にわたって運営しているブログだと、これが300人前後となる。
超有名ブログになれば、一日に数万あるいは数十万アクセスといったものもあるが、
写真ブログでそこまでのレベルのものはまずない。 多くても1000の位(くらい)で留まる
であろう。
しかし、展示会をやって、1週間やってがんばって300人を集客したとしても、ベテラン
ブログの1日のアクセス数と変わらない。・・つまり写真展は、かなり効率的には厳しい
イベントなのである。
3)の写真集。 まあ作るのは容易になった。 おそらく1冊数千円で可能であろう。
でも、作ってどうする? 売るのか? 何処で売る? 売った人からどうやって意見を
回収する? これも初期投資やなんやらで、あまり効率の良いものでは無い。
4)のHP。 これは非常に容易である。 HP作成ツールなどを使えば、写真作品が
用意されている状態では、早ければ30分。 まあ、手間をかけても、数時間~数十時間で
HPを完成させることができる。
しかし、まったく無名の個人のHPへの訪問者数は、どれくらいであろうか?
1日に数人ならばまだいい方であり、下手をすれば月に数名・・(汗) しかも友人やら
関係者ばかり・・ これではまあ、作るだけの労力が報われることは少ないであろう。
5)の写真教室。 これは曲者である。 役に立つ部分も勿論あるが、講評後での作品は
基本的に使い捨てに等しい。 つまり、撮っては評価されて捨てる、撮っては捨てる・・
その繰り返しになりかねない。 もちろん、習いに行くという目的の上では、それは意味が
あるわけなのだが、そこで、先生に「この作品は凄い! たいしたもんだ」と言わせたと
しても、先生と、自分の周囲のごく僅かな生徒仲間の間で、ちょっと鼻が高いだけであり、
社会的に何ら認められておらず、結局 1)~4)の行為をまたスタートさせなくては
ならない訳である。
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「なるほど・・ 写真で社会的に認められる、というのは大変なんだ・・」
・・・そうだよ。 もう一度言うけど、自分個人の範囲で撮っているうちは何にも問題は
無いんだ、けど誰かに作品を見せようとした瞬間に、それは結構大変な事になる。
「じゃあ、ブログはどうなの?」
・・・そこがポイントだよ。 数年前まではブログなんかなかった。
けど、今はある。 そして写真ブログというジャンル(カテゴリー)に属してブログを
運営している人もいくらでもいるし、写真ブログでなくても、映像としての写真を載せて
いるのは今や当たり前の話だ。
・・・そして、写真ブログは、これまで問題であった、1)~5)の写真を発表する場の
問題を見事に解決している。
毎日でも写真を載せて、毎日でもうまくすれば何百人という人が自分の写真を見に来て
くれて、まあ、基本的に酷いコメントは残さないという慣習はあるものの、いい写真には
多ければ数十のコメントが寄せられる。
興味をひかない写真を載せている写真ブログは・・運営術の問題も多々あるが・・
だんだん来場者数が減ってくるから、結果的に何らかの評価が下されているのと同じ事だ。
だから、ブログを運営していることで、結果的に自分の写真の発表の場を作っている
ことと等価であり、かつ、そこでは毎日(のように)、読者、訪問者側の視点での作品を
載せていかないとならなくなる。
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「では、写真を撮るという行為と、それを人に見せたいという行為は、違うと・・・?」
・・・うん、違う。 それははっきり言うことができる。
人に見せるということは、見る人の目線を大なり小なり意識しているという事だ。
もし自分の目線だけで撮った写真を、何の評価(反応)も期待せずに、ただ単に人に
見せたいという事はありえない。 見せるからには必ず何か言って欲しいし、それは
人間的なコミュニケーションの場を求める、つまり社会的な従属(帰属)感Iを求める
という行為なんだろうと思う。
「人に見せるということは、拒否される危険性も含まれるのではないですか・・?」
・・・その通り。 だから、以前も言ったかもしれないけど、自分の写真を見せたくない、
というタイプの人が存在している。
でも、写真やカメラは好きだから、そういう話は人としたい、それがその人達にとっての
社会的な交流であって、その中では、いい機材を持っているとか、沢山の知識を持っている
とか、写真そのものよりも、そういう事で社会的に認められたいという欲求を満足させる。
「それは、どうなんですか・・?」
・・・別に構わない。 写真、というジャンルだけで考えると、一見偏っているように
見えるかもしれないが、もっと広く考えれば、そうした行為は人間だれしも、様々な
ジャンルでやっている非常に根源的な欲求に基づく行動であるから、全然否定する
必要は無い。
ただ、指向が違えば話が合わない事は多々ある。
写真の作品で認めてもらいたいという人は、知識や機材にだけ精通する人を「ヘタクソ」と
言うかもしれないし。 逆の立場になれば「何も知らないくせに」と言うかもしれない。
「それは哀しい話ですね・・」
・・・うん、だから、両者は本来バランスしなければならないのだけど、そう簡単には
いかないであろう。 いままで機材に膨大な投資をしてきて勉強も沢山してきて、ただ
写真をあまり撮らなかった・・ 場合によっては、自分にセンスが無いなどのコンプレックス
を持っていたかもしれない人に、いきなり「写真を見せろ、お前の写真はここがダメだ」
などと言ったら、ひどく落ち込んでしまうかもしれない。
逆に、写真を撮ることに一所懸命で、機材や知識への投資を様々な理由でしてこなかった
人に「君はこんな事も知らないのか、いったい何年写真をやっているんだ」などと言っても
ケンカになるだけであろう・・・

このへんで本題に戻らないと、いくらでも書き続けてしまう・・ 読む方も徹夜になる
かもしれない・・(汗) 当ブログは長文が一つの個性・主張であるが限度もある、
以前超長文を書いて、あまりに記事の文字数が多すぎてブログにUPできない
こともあった(汗)
「写真に何故自己表現が必要か? ですよね・・」
・・・ズバリ答えを言おう。 その人が写真という媒体を通じて、他の人との何らかの
社会的なコミュニケーションを欲しているからだ。
コミュニケーションをするということは、「私は、こういう人です」と他の人に知らしめて
いることである。
ちなみに「こういう人です」という表現は、写真以外でも、言動、つまりファッションや
持ち物、主義主張、生活信条、言葉使い、といった様々な部分で、必ず対峙する人に
対しての自己表現(アピール)が行われている。
「それができない人もいる、と聞いたことがありますが・・」
・・・まあね・・・ もちろんそれはそれであるよ、そういう人もいる。
けど、このブログで取り上げる話題ではないよ。 社会問題だ、と言うのも色々と難しい
事が含まれるから、それについてとやかく言う必要は無い。
少なくとも、ここでは、社会的なコミュニケーションを欲する人が、自己表現をしたいと
考える事は事実だと述べておく。
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「自己表現って、弁論大会やら、スピーチやら、そんな事を想像してましたが・・」
・・・あはは、そんな直接的なものでなくてもいいよ。
たとえば、ある男性が、さりげなく、タグホイヤーだかの時計を身につけていたとしよう、
すると「お、タグホイヤーですね!」 「はい、そうです」
「へえ、私もその時計は好きなんですよ、ほら、なんか、超有名なブランドの時計は
素人っぽくて・・」「うん、そうですね・・ いやあ、貴方とは趣味があいそうですね」
・・・なんてやりとりができるかもしれない。
それもそもそも、自分は、このジャンルには少しこだわりがあるぞ、という弱い自己表現の
一種なのであり、ソフトコミュニケーションの材料となりうるのである。
あるいは、そういう風に、ダイレクトに自分自身の主義主張を訴えずに、
たとえば内気な性格を打開しようとして、わざと人目につく派手なファッションに身を包み
自分とは違う自分を演出しようと考えることもある。
「なるほど、それはあります・・」
・・・これは男性の話のみならず、女性はさらに、そのように変身する事は得意中の得意
だよね。 お化粧やファッションで、あらゆる自分を演出できるのは偉大な能力だよね。
「匠さん、そういえば、写真でもなりきり表現があるとか言ってましたね」
・・・それ以前に、過去記事の「悩み相談シリーズ」でも、
写真は、裸の自分をさらけだすか、飾った自分をさらけだすか、その2者択一だ、という
記事を書いたことがある。
飾った自分、という部分をさらに発展させたのが、なりきり表現(第三派)という事だよ。
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「コミュニケーション的に両者の差は?」
・・・自分自身を見せたいという欲求は、ある意味、自分が外見的あるいは社会的立場などの
理由で、本人の性格あるいは本質からは違う面を見られているという事実を解消したいという
事から来る場合が多い。
逆に、自分自身を見せたくないという欲求は、本質な部分に自信が持てず、
自分を大きく見せたり、強く見せたりしたいという事から来る場合が多い。
あるいは、自分自身の本質をさらけ出し、もしそこを否定されると、自分の存在意義
そのものを否定されるようになってしまうから、絶対にそこをさらけ出したく無い場合もある。
「う~ん、匿名性の強いインターネットの世界だからこそ、後者は成り立つと思うけど
実生活では苦しいだろうなあ・・・」
・・・そうなんだけど・・メリットはある。 もし、ある作り上げたキャラクターが社会的に
認められるとすれば、皆が知らない間に、自分自身の内面あるいは本質を、そこに適合する
ように改造してしまえばよい。 だから、後者は試行錯誤がいくらでもできる。
作ったキャラクターが認められ無ければ、ただ単にそれを放棄すれば良いだけの話だ。
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「もう一度聞きますけど、写真は自己表現なんですか?」
・・・うん、間違いなく自己表現だ。 だって、社会的な認知活動だろう?
「写真からは自分の内面なんか、誰も理解してもらえないのでは?」
・・・あはは、じゃあ、もし私が、モヒカン・カットの髪型をしたら、誰かが私の内面を
理解してくれるのか? そんな事を期待してその髪型をするわけではあるまい。
「写真がそんなツールになりうるのですか?」
・・・逆に、そうしたくなければ、あたりさわりの無い写真を撮っていれば良い。
でも、それは頼むから人に見せて欲しくないし。 仮に見せても、誰もその写真にコメントを
残す必要もない。 何故ならば、その人は、そうして欲しく無いのだから・・・
ファッションで言えば、どこにでもあるようなスーツを着て、目立たないような格好で
生活している、とは言え、刑事さんじゃないよ・・・(笑) まあ、できるだけ社会の中から
自らの存在を消す形にしている、・・・それも一種の自己表現だと思うよ。
「内面や本質に構って欲しくないという?」
・・・そう。 でもそれは否定してはならない。 何故ならばそれも1つの方向性。
でも、もう一度言うなら、それだったら欲を出して、こっそり自己表現をしたい、等とは
思わない方が良いと思う。 具体的には、人知れずコンテストに出しつづけ、毎回ボツに
なってもメゲずに、いつか入選したら、周囲に思い切り自慢してやろう・・とか。
匿名性の強いインターネットの世界で、こっそりどこかに写真を載せてもらって、
いい評価が得られた時だけ「それは自分が撮った写真です」と言うとか・・・
何故それらがいけないか、と言えば、コミュニケーションというのは双方向性が必ず
必要なものだからなんだ。 片方向だけで、一方的に自分は安全な場所に身を隠しながら
自分に有利な事を待っている、というのでは、自己表現どころか、人間性そのものも
疑われてしまいかねない。 否定される事が怖くて、表の場に出ることを好まなければ
結局、その自らの行動パターンへの自己嫌悪が出てくる恐れが多い。 そうなると、
心理的に悪いスパイラル(螺旋=悪循環)に落ち込む危険性がある。
「う~ん、わかるような気がします。 だったら写真を撮って見せるのはどうなんですか?」
・・・もし、実生活で様々な心理的なストレスがあって、それを解消したいと考えるなら、
写真による自己表現というのは、比較的安全かつ効果的な手法になると思う。
世の中には「フォトセラピー」という言葉、すなわち心理療法もあると聞く。
そもそも、もっと積極的に写真というものを利用するのが良いと思う。
誤解を恐れずに言えば、人間はなんらかの心理的ストレスを抱えていて、それの
解消手段のひとつとして写真という行為を選択しているのだと思う。
まったく何ひとつ不自由してなければ、写真なんか撮って人に見せる必要も無いし、
まあ、逆に、生きて行くこと自体が苦痛になるほど酷い心理状態であれば、写真なんか
撮りたいとも思わない事であろう。 だから、写真を撮る事ができると、そしてそれを
人に見せることができ、人とコミュニケーションを取れるというのは、その点、幸せな事
なのだろうとも思う。
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「う~ん、だから、何故写真で自己表現しなければならないんですか・・・?」
・・・もう、さすがにわかっただろう?(苦笑)
人間そのものだからだよ。 さすがに、そこを否定するわけにはいかないだろう・・?