女流漫画家「里中満智子」が32年!という長い歳月をかけて
完結したライフワーク作品「天上の虹」は「持統天皇物語」
として、7世紀の激動と混迷の時代を描いている。
前編では、この時代の「蘇我氏」「皇極(斉明)天皇」、
「中大兄皇子(天智天皇)」のゆかりの土地を巡って紹介を
してきたが、引き続き後編でも、「天上の虹」の登場人物の
ゆかりの土地を巡ってみよう。
冒頭の写真は、持統天皇が開いた「藤原京(跡)」であるが、
こちらについては詳細は後述しよう。
まず、「天上の虹」であるが前述の通り32年という年月を
かけて完成した長編漫画である、漫画文庫で全11巻、
最終巻は昨年2015年冬に発売されている。
「持統天皇物語」と副題があるが、私が思うに、この漫画は、
持統天皇が主人公と言うよりは、「歴史そのもの」が主人公
であるように思えてならない、ともかく、この時代は、日本史上
でも他に類を見ない激動の時代なのだ。
しかし、漫画として読んでいても、日本史上起こった事実を
捻じ曲げることはできない。例えば672年に天智天皇が崩御する
事実は変えられないので、漫画の中でもその年に必ず死んでしまう。
(昔の漫画やドラマでは、死んだはずの登場人物が、生きていた、
という設定も良くあったが・・)
歴史を知っていると、ちょっとそのあたり「ああ、この人はもうすぐ
亡くなってしまうな。もうすぐ○○の事件が起こるな・・」
といった事が事前にわかってしまうので、場合により興味をそいで
しまうかもしれない。そういう点では、歴史を全く知らない状態で
読んでいる方が、想像を絶する驚きの展開が、いくつもあって、
はるかに面白いと感じる事ができる漫画かも知れない。
(まあ、それほど、もの凄い波乱万丈の時代であった訳だ)
---
で、この記事では、この漫画の舞台に沿って、私も様々な関西の
土地を巡って写真で紹介している訳だ。(まあ、その舞台の中には
簡単には行けない土地もあるが・・)
前編では、西暦667年に、天智天皇が即位し、飛鳥から近江宮
(大津京)に遷都したところまで紹介した。
天智天皇即位後、本来は弟の大海人皇子が次期天皇(皇太子)と
なる予定であったのが、複雑な政治事情や人間関係がそこにある。
天智天皇は、だんだん弟の大海人皇子よりも、息子の大友皇子に
天皇の位を譲りたいと思うようになってきた。
これは、この時期、天智天皇は病の床にあり、余命の短さを
感じていた要因も強かったかも知れない。
大海人皇子は、野望をあまりむき出しにすると自らの命も
危ない」と思ったのか、天智天皇の前で皇太子をきっぱりと辞退。
そして、讚良(ささら/さらら;天智の娘;後の持統天皇)や
息子の草壁皇子とともに奈良県の吉野に隠棲(避難)してしまう。
(一応は「出家する」という名目であった)
さあ、こちらも吉野に向かってみよう(ふう、忙しい・・汗)
この場所は、大海人皇子と讚良が隠棲したとされる「宮滝遺跡」
(吉野離宮)からは直線距離で4kmほど離れた場所だ、
(宮滝遺跡は、電車ではアクセスしずらい位置にある、
私は以前行ったことがあるのだが、フィルムの時代だったので、
写真は探せていない)
そして、吉野離宮は、飛鳥宮からは、直線距離で13kmほどである、
大津京からは同73kmほど、これはちょっと微妙な距離だ、
つまり、大津京からは飛鳥であっても吉野であっても同様に遠いし、
飛鳥と吉野は、あまり変わり映えしない距離なのかも知れない。
しかし、天智天皇から見れば、旧京で、天智への反対勢力も
沢山居るだろう飛鳥を、(最も危険な)大海人皇子が離れて
くれているのは、多少なりとも気休めにはなったかも知れない。
だが、人々はこれを「虎に翼をつけて野に放した」と称した
とされる、大海人皇子がこのままでは終わらない事は、朝廷や
民衆の誰しもがわかっていたのであろう・・
さて、吉野宮へは、今回は行くのは諦め、観光地である吉野山の
方に向かってみる事にしよう。
吉野の冬は寒い、訪れた日も雪が積もっていた。
近年は暖冬傾向であり、大阪、京都、神戸などの都市部では
雪が積もることはかなり稀であり、1冬に1~2度あるか
どうかという感じだ。なので(寒いのだが)雪はちょっと嬉しい。
けど、私が吉野を訪れるのは、真冬とか真夏とかが殆どだ、
と言うのも、桜や紅葉の時期、特に桜の時期は、吉野は関西でも
トップクラスの桜の名所であり、極めて混雑するからだ。
この一極集中は、情報収集手段(スマホやPCなど)が増えたが
情報選択技能がそれに追いついていない、という現代の世情から
来る悪い傾向としての一極化、というよりも、昔からずっとこの
場所は混雑しているのだ(誰でも知る有名な場所だという事だ)
真冬はもとより、真夏に来ても結構大変だ、10数年前だったか
ここを訪れたとき、高地でもあるので、避暑のつもりで気軽に
来て、観光ルートを外れて、ちょっとした山道を散策していた・・、
で、水分の補給をおろそかにして、あやうく脱水症状を起こし
そうなった事がある。近年では私は、真夏はずっとドラゴンボートの
観戦撮影で長時間炎天下の屋外に居る事が多いのだが、その際
数リットルの水分を補給することで、元気良く1日動くことができる。
しかし、当時は、まだあまり真夏に長時間屋外に居る経験は多くは
なく、水分補給などの限界点を知っていなかった状態だった、
まあつまり、ナメてかかって酷い目にあったという事だ(汗)
さて、漫画「天上の虹」では、吉野宮は山中のイメージで描かれて
いる事もあったが、実際の「宮滝遺跡」は吉野川の川沿いである。
大海人皇子は、複数いる妻のうち、讚良(持統天皇)しか
吉野宮に同行させなかった模様であり、漫画の作中では、讚良の
気持ちは、吉野に逃げてきているというよりは、むしろ、夫を独占
できるという、妻(女性)としての心理描写がうまく描かれている。
そして、吉野へ隠棲の翌年672年、病床にあった天智天皇は
崩御する。
こちらは、京都府山科区の「天智天皇陵」だ。
最寄り駅は御陵(みささぎ)と、そのものズバリの名称。
で、通常、天皇陵と言うものは、明治時代くらいの近代になって
「ここが何々天皇陵」と便宜的に比定されたものが多く、すなわち
現在ついている(古墳の)天皇名は信憑性の低いものが多い。
そのため、近年では「○○天皇陵」という呼び方をせず、例えば
国内最大の「仁徳天皇陵」は現代では「大仙陵古墳」といった風に、
地名あるいは、固有の名称で呼ばれる事が通例となっている。
しかし、この「天智天皇陵」については、被葬者が天智天皇で
ある事が、ほぼ間違いないという事がわかっている。
こうした「確実な天皇陵」は極めて少なく、他には、それこそ、
この記事での主人公である、「天武・持統合葬陵」くらいしか
無い模様である。しかし、何故これらの天皇陵のみが被葬者と
の関係が確実か、というのが少々不思議だ。もしかすると、やはり、
この激動の時代であるから、人々に与えるインパクトは大きく、
日本書紀はもとより、数多くの記録が残されていたり、後世にも
ずっと語り継がれてきたから、という理由かも知れない。
---
さあ、キーマンの天智天皇が亡くなってしまった、しかし、
不幸中の幸いで、病死である、もし、ここも暗殺とか戦死とか
であったりすれば、それこそ血で血を洗う、悲惨すぎる歴史に
なってしまっていた事であろう・・
天智天皇の後継者は、息子の「大友皇子」である、
この時(672年)、まだ24歳であった。
しかし、天智天皇の死後半年、672年7月、
ついに「野に放たれた虎」すなわち大海人皇子が、大友皇子を
倒すために決起する。
古代史最大の事件と言われる「壬申の乱」がついに始まった。
大海人皇子は、まず一旦伊勢に向かい、さらに北へ向かって、
伊勢、美濃や伊賀の豪族を従えて近江宮(大津京)に翻す。
まあ、恐らくは、吉野に隠棲した時点で、各地の豪族と連絡をとり、
こうしたクーデターの準備を着々と進めていたのであろう。
大海人皇子の長男の高市皇子(漫画では実力者として描かれる)
の軍とも合流し、万全の体制となった。
そのころ、近江朝廷の大友皇子は、東国および西国の吉備などに
連絡し兵力を整えようとするが、東国への使者は大海人皇子に
阻まれ、西国の豪族の協力は、得ることができなかった。
この点においては、若い大友皇子ゆえの問題であったのか、
あるいは、大海人皇子の人望が勝っていたのか、はたまた
何らかの策略か、真実の所は不明であるが、まあともかく、
反乱軍が有利な状況となった。
大友の軍は、大津から押し出して美濃方面にも向かったが
大海人の軍に連敗し、押し戻されて、結局最後の大きな戦場と
なったのが、大津京にほど近い「瀬田橋」の戦いである。
こちらが、瀬田の唐橋、琵琶湖の南端、瀬田川にかかる
橋であり、地図を見たらわかると思うが、交通の要所である。
この672年の「壬申の乱」が、文献上での最初の登場で
あるらしいが、後年も歴史上に何度となく出てくる有名な橋だ。
その中でも特に有名なのは、戦国武将、武田信玄の遺言があり、
「瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てよ」というものである。
現代においては、「日本の名橋100選」「日本三古橋」と
しての観光名所である他、「塗り替えのたびに住民投票をする」
というニュースも世間を賑わせ、さらには、ボート競技のメッカ
でもあり、毎年11月には、ここで多種多様のボートが行きかう
レース「Head of the SETA」が行われている(その模様は、
何度か本ブログの記事で紹介している)
672年8月20日の「瀬田橋の戦い」に敗れた大友皇子は、
その翌日に自決、ここに「壬申の乱」は反乱側である大海人皇子
の勝利、という歴史上でも珍しい結果となって収束した。
大友皇子は、天智天皇死後のドタバタの中、正式に天皇として
即位したかどうか定かではない。どちらかと言えば、即位して
いなかった可能性の方が高かったであろう。
で、近代、明治時代となって、天皇家の系譜を整理した際、
大友皇子にも、「弘文天皇」と諡号が贈られている。
「弘文天皇陵」すなわち大友皇子の陵墓は、滋賀県大津市、
大津市役所の裏山にひっそりと存在している。
大海人皇子は、大友皇子の死後も少しの期間美濃に留まって
戦後処理にあたったが、翌673年、再び飛鳥の地に戻り、
「飛鳥浄御原宮」を起こして、そこで即位し天武天皇となった。
この時点で、複数居た天武天皇の妻のうち、(死別などの
理由により)最高位となったのは、後の持統天皇となる
讚良であり、讚良は、すなわち「皇后」の地位となった。
しかし、讚良は単なる「お飾り」としての皇后ではなく、
天武天皇とともに、直接政務を担当する事になる。
天武天皇は、度重なる波乱の時代であるので、もう誰も信じなく
なっていたのかも知れない、1人の大臣も置かず、信頼できる
讚良と親族のみによる「皇親政治」を行った。
漫画「天上の虹」においても、この時代の讚良は、賢く強い
女性として描かれている。
それから13年の間、天武天皇と讚良は国内の安定に努める為
律令制度を整える事に尽力する、前編で述べた海外からの
脅威の問題はまだ完全に解決していたわけでは無い、ともかく
国内を一枚岩にまとめる事が最重要課題であったのであろう。
讚良は、天武天皇の後継として「草壁皇子」を推していた
模様であるが、漫画の中で彼は、色々と問題を起こしている。
たとえば、讚良の姉の天智天皇の娘の大田皇女(I讚良と同じく
大海人皇子に嫁いでいたが、天武即位前の667年に死去)の
息子である「大津皇子」との対立関係などである。
681年には、結局、草壁皇子が立太子している。
だが、683年には大津皇子も朝廷政治に参画し、草壁皇子との
対立も深まっていく(幼年期は異母兄弟として仲がよかった)
漫画「天上の虹」では、大津は優秀であり、草壁は頼りなく
描かれている。
讚良も、一度は自分の1人息子の草壁を皇太子としたものの、
亡き姉の息子の大津を皇太子にするべきか非常に悩んでしまう。
正妃だった姉の大田皇女と讚良との関係は悪くなかった模様だが、、
姉が先に亡くなっていて、本来ならば大津が次期天皇になる筈で
あった筈が、後ろ盾を失った大津皇子は不運であったのであろう。
---
686年9月、天武天皇は崩御した。
讚良は当然深い悲しみに落ちるが、とり急ぎの政治上の問題と
しては、次期天皇を誰にするか?という件だ。
草壁皇子か、大津皇子か・・・?
天武天皇が亡くなった直後の686年10月、川島皇子が
「大津に謀反の意あり」と朝廷に密告する、川島皇子は先代の
天智天皇の第二子であり、大津皇子の親友でもある。
だが、この密告は何か不自然である、親友を密告して川島皇子に
何の得があるのだろうか?どうしても草壁皇子に次期天皇になって
もらいたい理由があるのか?もしかすると誰かの策略に乗せられた
のかも知れない、讚良が何か策略した可能性も捨てきれないが、
漫画においては、微妙な流れで、曖昧にこのあたりは書かれている。
(まあ、さすがに、主人公がそんな策略をしたと、はっきり書く訳には
いかないであろう・・)
密告されて僅か1日で、大津皇子は自害、享年24歳。
そして、妻の山辺皇女も殉死してしまった・・
このあたりも、なにか不自然であるが、それはともかく、事実だけ
見れば、大津皇子は悲運である。
漫画においても、読者の大津への同情を意識してか、
大津が、山の民「アナメ」との間に儲けた子が登場してくる。
その子は、出自を隠したまま、歴史書の編纂の事業に加わり、
後年「太 安万侶」と名乗り、「古事記の編纂者」として歴史に
名前を残す事となる。(注:それが事実かどうかは不明である)
---
ここでは、讚良の1人息子であり皇太子でもある草壁皇子が
しっかりしていて、次期天皇として即位すれば良かったのだが、
大津の死に多大なショックを受けて精神を病んでしまう。
草壁と大津は、異母兄弟であり幼年期は仲がよかった、
青年期には、恋愛において三角関係となり、それがもとで
大津との間には確執もあったのだが、それらの修復もできぬ
まま大津が謀反の疑いで自決してしまったのでは、心の優しい
(ただし頼りない)草壁がそうなってしまうのもやむを得ない。
まあ、漫画ではこういう裏の事情が描かれていたが、あくまで
それはストーリー展開上の想像の産物かも知れない。
で、結局草壁の即位は見送られ、引きこもりのまま、半ば自殺
同然で死に至る。 689年、享年27歳であった。
讚良は一連の事件にショックを受ける。
まあ、しかし、波乱万丈の生涯であり、激動の時代でもある・・
漫画の読者としても、次々と起こる様々な重大事件に、目が離せ
なくなると同時に、もう多少の事では驚かなくもなり、さらに
讚良の「強さ」にも惹かれるようになってくるのだ。
そして、ここからが主人公の女帝の強いところだ、讚良は自ら
即位する事を決意し、690年、「持統天皇」として即位する。
なお、即位するまでの期間も、実際に政治を見ていたのは讚良
であり、ここもまた前編での中大兄皇子(天智天皇)と同じく称制
である。(よって、690年は持統元年ではなく、持統4年となる)
こちらが、持統天皇が精力的に進めた事業の1つである
「藤原京」(模型)である。
持統天皇は、即位とともに藤原京を着工、694年に遷都する
(平安京遷都の、ちょうど100年前)
藤原京は従来、後の平城京や平安京よりも小さい、こぶりな都と
解釈されていたが、近年、発掘調査により様々な遺構が広範囲
において発見され、古代史最大の都であったことがわかった。
(現代の地図と重ね合わせると、異常にまで広い事がわかる)
藤原京は日本史上初の条坊制による本格的な都でもあったので
このことからも、持統天皇の実力(そして政治への執念)も伺える。
藤原京遷都のみならず、律令制度の推進や歴史書編纂など、
様々な事業を精力的に行った持統天皇であるが、
草壁皇子の息子、すなわち孫である珂瑠皇子の正妃の紀皇女の
不倫、心中事件(注:俗説としてそうなっているが、公式記録では
この事件は抹消されている模様だ)をきっかけに病に伏せる。
そして、同時に、珂瑠皇子への譲位を決意する。
697年、珂瑠皇子は即位し「文武天皇」となったのだが、
漫画の中では、文武天皇は天皇としての器量に欠ける人物として
描かれている、同時に若さもある、即位した時点では15歳であった。
持統天皇は、文武天皇の稚拙な発言から、天皇として適任では
無いと判断し、自らは、新たな「太上天皇」の位を設け、
そこに付くこととなった。いわゆる「上皇」としての日本最初の
ケースである(後年、この制度は色々と波紋を呼ぶが・・)
そして、持統上皇の言うがままとなっていた文武天皇は
次第に上皇と対立するようになってくる(漫画の中では、特に
遣唐使派遣や律令制度推進においては、激しく対立していた)
702年、持統上皇は、30年前の「壬申の乱」の際に天武天皇
(大海人皇子)に協力してくれた地域(中部・東海)に行幸する
事となった、夫との思い出を辿る意味もあったかも知れない。
しかし、そこで賊に襲撃され、まだまだ朝廷への反乱分子が多い
事を知りショックを受け、受けた傷も悪化した事から、急速に
体調を崩してしまう。
持統天皇は病床の中、残りの人生で何が出来るかを色々考え、
悩み、最後に「大津皇子の為に寺を建てよう」と思いつき、
寝所から立ち上がろうとして、転倒してしまい、そのまま
波乱万丈の生涯を終える、享年57歳。
持統天皇は夫である天武天皇とともに、飛鳥の地に眠っている。
写真の「天武・持統合葬陵」は、真陵である。すなわち、
天武・持統の墓で間違い無いという意味だ。陵墓においては、
名称と被葬者が異なる場合が殆どであるというのは前述の通り
であり、ここは数少ない「被葬者が確定している」古墳である。
こちらは、飛鳥、甘樫丘からの眺望である。
聖徳太子、推古天皇、蘇我一族、皇極・斉明天皇、乙巳の変、
板蓋宮、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)
讚良(持統天皇)・・・ 様々な偉大な人物や、様々な大きな事件が
ここ飛鳥にあったのだが、それらを一望に見下ろせる甘樫丘に来る
たびに、なんだか悠久の歴史とか、一般に「歴史ロマン」と言われて
いる感覚とかが、少しだけ分かったような気になってくる。
私も、以前、そうした歴史上の事実を何も知らなかった時にここに
来たのでは、そういう複雑な感覚を味わうことはできなかったのだ。
持統天皇(上皇)が702年に亡くなっても、(漫画「天上の虹」が
2015年に完結しても・・)、歴史は止まる事はない。
文武天皇は、707年に若くして崩御、そして「天上の虹」の漫画の
中でも、脇役として良く登場していた阿閇皇女(天智天皇の娘、
草壁皇子の妻、文武天皇の母)が女帝として707年に即位、
「元明天皇」となる、彼女は在位中の710年(頃)に「平城京」に
遷都した事でも知られている。
さらに時代が下ると、715年には、草壁皇子と元明天皇の娘であり
文武天皇の姉でもある「氷高皇女」が元正天皇として即位する。
彼女の逸話も「天上の虹」の中ではちょくちょく出てきており、
若き頃は恋に悩む美女として描かれ、成長するとともに恋を捨て、
独身主義のしっかり者となっていく。
(事実、結婚せずに独身のまま即位した日本初の女性天皇である)
ちなみに、日本史上、女性の天皇は8人(うち2人が重祚して
延べ10人)居るが、その半数がこの「天上の虹」の登場人物
として出てくる訳だ。この激動と混迷の時代は、やはり女性が
強かった、という事なのであろうか・・
ちなみに、第117代の後桜町天皇(在位1762年~1770年)
の後は、250年近くも、女性天皇は誕生していない・・
記事は、このあたりまでで「天上の虹」の話を終える事にしよう、
多少ネタバレの部分もあったかも知れないが、ストーリーは基本的
には、歴史的な事実であるので、ネタとは言えない事であろう。
ともかく面白い漫画である、まあ時代そのものが激動であるので、
より興味が出てくるのであろう。
大河ドラマでもやって欲しいが、まあちょっと皇室関係にも関連
するので微妙に実現しずらいかも知れない・・
是非「天上の虹」をいっき読みして、楽しんでもらいたいと思う、
久々に出てきた、文句なしに薦められる漫画である。