女流漫画家「里中満智子」による長編漫画作品「天上の虹」が
ついに完結した。
ついに、と言うのは、この作品は1983年から連載が開始され
2015年の完結まで、実に32年の年月がかかっていたからである。
「天上の虹」には副題として「持統天皇物語」と付けられていて
西暦690年から697年までの期間即位した女帝の「持統天皇」の
生涯について描かれている。
当初は少女漫画としてスタートした模様であるが、回が進むと
本格的歴史漫画としての様相を見せ、同時に男性の読者層もかなり
増えてきた模様で、連載も長期化、最新の時代考証なども随時
取り入れながら、里中満智子のライフワーク的な大作となった。
連載中、掲載誌は、いくつか変わった模様であったが、現在
2016年では、講談社より文庫版で全11巻が販売されている。
(ちなみに、11巻ボックスセットもある)
私は、文庫版で10巻まで所有していて、最終巻の発行待ちの
状態であったが、2015年冬に、無事11巻が発売され、これで
コンプリート。
完結したその内容は実に面白く、むしろ感動的でさえあった。
せっかくなので、この「天上の虹」の舞台となった様々な土地を
本記事で紹介しよう、このあたり、関西に住むメリットであり、
こうした古代ロマンの世界に身近に触れることができる。
まずは、「天上の虹」の直前の時代、6世紀の飛鳥だ。
この時代の人物いえば、推古天皇、聖徳太子、そして上写真
の「飛鳥・石舞台古墳」の被葬者といわれている「蘇我馬子」が
著名であろう。
蘇我馬子の全盛期であるが、詳しい記録はあまり残っていないか、
残っていたとしても、まるで極悪非道のように書かれている。
これは恐らく、後述の「乙巳の変」で蘇我氏(主家)を滅ぼした
事により、藤原氏などがあえて、蘇我氏を悪役に仕立てた
可能性もあるからだ。
一説によると、蘇我馬子が行った善政については、これを馬子の
ものとせず、聖徳太子という架空の(!?)人物を創造して、
馬子の功績をすべて聖徳太子のものとしたという説もある。
そして、上の「石舞台古墳」は、石室がむき出しになっているが
これもまた、蘇我馬子の痕跡を無くすために、後年、古墳を破壊
した(盛土をすべて撤去した)という説が一般的だ。
ちなみに、この石舞台古墳の南側に「都塚古墳」というものが
あるが、近年、この古墳は、巨大な階段ピラミッド状の方墳で
あった事がわかり、大王クラス、例えば馬子の父の蘇我稲目の墓
では無いかと言われている。
626年、馬子の死後も蘇我一族は、蝦夷(毛人)、入鹿らの一族
により繁栄していた、ただ、これらの名前も、若干差別的な意味
が含まれているため、後世、蘇我氏の功績を抹消するために
意図的に変えられたのではなかろうか?という説もある模様だ。
このころ(7世紀半ば)の天皇は、女帝「皇極天皇」である、
皇極天皇は飛鳥板蓋宮で643年に即位した。
こちらが伝・板蓋宮だ、これは、毎年飛鳥で8月または9月に
行われる「飛鳥 光の回廊」のライトアップイベントにて。
皇極天皇(後に重祚して斉明天皇)は「石の女帝」として知られ
多数の石の建造物を作った。そのいくつかは現代も飛鳥に残り
「奇石」として観光的にも知られているが、これらの建造物は
この当時の外国(大陸)との政治的交渉の際に、日本を先進国と
して対等の立場をアピールする意味もあった模様である。
皇極天皇体制の元、大臣として政権を握った蘇我入鹿は、飛鳥の
甘樫丘に邸宅を築き、蘇我一族を住ませ、皇室行事を支配したと
いわれている。
こちらが甘樫丘、現代においては、隠れた桜の名所であるが、
その事は、地元の人以外にはあまり知られていない様子だ。
順風満帆に思えた蘇我氏であるが、当然蘇我氏を良く思わない
勢力も居たであろう、影でクーデターの準備が進行していた。
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣(藤原)鎌足に
よる「乙巳の変」が勃発、蘇我入鹿は、皇極天皇の目前で殺害
されてしまった・・
こちらが飛鳥寺の西にある「蘇我入鹿の首塚」
伝説によると、ここまで首が飛んできたらしいが、板蓋宮からは
相当距離がある・・
乙巳の変が起こった理由は良くわからない、定説では蘇我氏の
実権が強力になりすぎ、朝廷すらコントロールするようになった
からだとの事と、それから、入鹿が政敵である聖徳太子の一族
「上宮王家」(山背大兄王を筆頭とする)を滅ぼした事を
大義名分としている、等とされているのだが、前述のように、
後の記録は勝者を正当化する目的で書かれているので、
蘇我氏を悪く書くのは当然なのであろうが・・
(それに、そもそも、聖徳太子の一族が、綺麗さっぱり居なく
なってしまったのも少々不自然だ)
一説によれば、蘇我入鹿の首塚のある場所は、飛鳥寺の当時の
西門にあたり、入鹿は、板蓋宮ではなく、この場所で暗殺された
という考え方もある模様だ。それは例えば、乙巳の変が外国から
の使者や皇極天皇の目前で起こったという日本書紀の記述の
内容が不自然であるからという事もある(例えば、入鹿殺害に直接
手を下したのは中大兄皇子であり、中臣鎌足は、ただそれを見て
いるだけという点。中大兄皇子は皇太子であり、中臣鎌足は無冠
だ、まあ後述のように、中臣鎌足が百済の王子と同一人物で
あったから、という解釈もある模様だが、まあ、いずれにしても
何か不自然さが残るように思う)
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そして、この年(645年)中大兄皇子(後の天智天皇)の娘として、
漫画「天上の虹」の主人公である「讚良」(ささら/さらら、後の
持統天皇)が誕生している。
なお「乙巳の変」はいわゆる「大化の改新」と混同されやすいが
本来、中大兄皇子によるクーデター事件が「乙巳の変」であり、
この翌年に発令された「改新の詔」に基づく政治的改革の全般が
「大化の改新」なのだが、「乙巳の変」を含んで「大化の改新」
とするケースもある模様だ。
クーデターのショックからか、皇極天皇は、乙巳の変の後で
天皇を譲位してしまう(天皇位を譲ったのは日本初と言われる)、
後を受けた弟の軽皇子(孝徳天皇)は、大阪の難波宮で政務を
行った(これは政情不安を避けてか?)「改新の詔」など精力的
な活動をしていたものの、飛鳥に残りたいとする臣下が大半であり、
ほとんど誰も従わず、失意の中で孝徳天皇は在位9年で没する。
孝徳天皇亡き後、天皇を次いだのは、なんと、また皇極天皇
であった、これは「重祚(ちょうそ)」と言い、史上初とのこと
である。
665年、皇極天皇は「斉明天皇」として板蓋宮で重祚した。
中大兄皇子が何故自ら即位せず、母である斉明天皇に皇位を
譲ったのかは謎であるのだが、まあ、クーデター政権であるから
民意を重んじたり、政敵を警戒したのかも知れない。
しかし、斉明天皇は既に高齢でもあり、政治の実権は中大兄皇子
が握っていた模様である。
661年に斉明天皇は崩御、「斉明天皇陵」という陵墓(古墳)は
存在するが、近年の研究により、上写真の「牽牛子塚古墳」
(けんごしづかこふん)が、斉明天皇の真陵であると言われる
ようになった。
牽牛子塚古墳は近鉄飛鳥駅の西側約700mにある八角墳、
陵墓参考地であるので、近寄ってその石室内部を見ることも
出来る。
(天皇陵とされている場合は墳丘に近寄ることも出来ない)
石室は二重構造であり、日本書紀などの記述と一致する模様だ、
なお、一説によると、兵庫の「石の宝殿」 飛鳥の「益田の岩船」
といった巨大石造物は、これまでその用途や目的が不明だったのが
最近の研究によると「斉明天皇陵の石室を作る為の石材だった
のが、切り出し途中に割れたりして放棄された失敗作であった」
という説が有力視されている模様である。
なお、この時代、飛鳥京は生者の都であり、今で言う近鉄吉野線
の西側あたりのエリア一帯が、死者の地、すなわち皇族の墓等が
主に作られた地域として、そうした宗教観から明確に分離されて
いたという説もある、さらにちなみに、近鉄線のやや東側にある
奇石群の「猿石」は、その死者のエリアの方を向いていて、
これは「結界」の一種ではなかったかという説もある模様だ。
(注:天武・持統陵が飛鳥京の直近(生者の地)にあるのは、
陵墓が作られた時点では、すでに都は藤原京に移っていたから)
で、こちらが兵庫県高砂市の生石神社にある「石の宝殿」だ。
(ちなみに、石の宝殿と呼ばれる場所は、関西に数箇所あるので
説明する際には、どこの石の宝殿なのかを指定する必要がある)
切り出した後があり、斉明天皇陵の石室という説も納得が行く、
しかし、各辺が5~7mもある巨石だ、重さは500トン以上あると
言う。もし無事に切り出せたとしても、どうやって飛鳥まで
運ぶつもりであったのだろうか?
(作業途中で「やっぱ、無理だ・・」と諦めたのかも知れない)
さて、斉明天皇の崩御後も、中大兄皇子は即位せず、
皇太子のままで、政務をとりしきった、これを「称制」と呼び、
歴史上は天智天皇と持統天皇の2例がある模様である。
しかし、歴の上では、天皇不在だからといって空白の歴の期間と
する訳にもいかず、斉明天皇崩御の翌年を便宜上「天智元年」
としていると聞く。
で、もしかすると、政敵などとの政治バランス上や乙巳の変の
経緯の関係で、即位したくとも、なかなか難しい面があったのかも
知れないが・・(例えば、中大兄皇子は、将来の政敵となる可能性
のあった有間皇子を謀反の疑いで処刑する等を行っている、
有間皇子は、それ以前に、しばらく狂人のふりをして政治抗争に
巻き込まれるのを防ごうとしていたが、それも及ばなかった模様だ)
で、このころ(660年ごろ)、朝鮮半島においては、日本と友好国で
あった百済が唐により攻め滅ぼされる。
当時の日本は朝鮮半島や大陸との密接な関係があった模様で、
海外政策は、聖徳太子の時代からも重要であったのだろう。
朝鮮半島では、新羅や高句麗、伽耶といった諸国がバランスを
取っていた時代であったので、百済が滅びると、そのあたりの
緊張関係が崩れるばかりか、唐が余勢を駆って、日本にまで
攻め込んでくる危険性も出てくるという事になる。
まあ、当時の日本は技術的な発展においても、渡来人の知識を
必要としていた。人的交流も勿論多かったのだが、例えば百済
との同盟関係において、百済の王子、豊璋(ほうしょう)を人質
として来日させていた。一説によると、「乙巳の変」の中心人物
の中臣(藤原)鎌足こそ、豊璋と同一人物という見解もある、
真偽の程は不明であるが、非常に興味深い説である。
歴史における同一人物説、というのはなかなか興味深く、
たとえば、卑弥呼と天照大神、神武天皇と崇神天皇、
ジンギスカンと源義経、明智光秀と南光坊天海など、
どの説も真偽の程はさだかではないが、”もしそうであったら”
と考えると、なんとも楽しくなってくる。
で、生前の斉明天皇も、大陸との結びつきを重視して、様々な
石の建造物を作ったのは前述の通りであり、そして、百済滅亡の
ニュースが入ってきたのは、ぎりぎり斉明天皇の在位中であった。
斉明天皇は百済復興を支援するという方針を立て、九州に軍を
まとめたが、その志半ばで崩御してしまった訳だ。
(ちなみに、百済救済の軍事行動への反対勢力による、
斉明天皇暗殺、という説もある模様だ)
母である斉明天皇の意思を次いだ、時の最高権力者である
中大兄皇子は、663年、百済復興の為に軍を朝鮮半島に送る。
まあ、もし、異説のように、中臣鎌足と豊璋が同一人物であったと
すれば、両者は盟友であるからそういう流れになるだろうし、
それはさて置いても、大陸から脅威への「防波堤」となるべき
百済の存在は当時の日本にとって欠かせない、そして、未だ乱れて
いる国内の複雑な政治事情も、海外に目を向ける事で一本化され
統一されるかも知れない・・
しかし、この戦いが、歴史的な大敗となってしまうのだ。
これが有名な「白村江の戦い」である。
中大兄皇子政権にとって、これは致命的とも言える失敗で
あったのだが・・・
その後、667年になって中大兄皇子は現在の滋賀県大津市の
近江宮(大津京)に遷都し(逃げたのか?)その地で即位して
「天智天皇」となる。
さて、こちらも、大津に向かってみよう・・
京阪大津線(京津線)を浜大津で乗り換え、近江神宮駅に
向かう、まあ、この方法の他、JRでも大津京駅(旧西大津駅)
から乗り換える事も可能だ。
大津京への遷都は、飛鳥での反対勢力を避ける意味も大きかった
のかも知れない、また、白村江の戦いでの敗北という失地回復
の為にも、即位は必要だったのかも知れない、そのあたり、
この頃の複雑な政治事情がうかがえるので興味深い。
しかし、大津京(近江宮)は5年という短期間で廃棄された為、
このころの遷都は、旧京を埋め戻すなどして完全に廃棄して
しまうからか? 現代において遺跡や遺構は殆ど残っていない。
まあ、近年の大津市による大津京の観光資産としての整備により
様々な地点に説明板などが立てられてきてはいるが、ともかく
遺跡等の見るべき場所は殆ど無い状態ではある。
まあ、それでも近年の発掘調査により、様々な遺構が発見されて
はいる。
ここ近江宮で、このころの日本の課題であった律令制を整える
為の様々な試みが行われていたのであろう、まあ、このような
政情不安定な状態では、大陸からいつ攻められて滅ぼされる
かも知れない、まずは国内をまとめることが先決だったであろう、
だが、飛鳥を拠点とする反対勢力から遠い筈の近江宮においても
民衆の不満は絶えなかった模様ではあるが・・・
近江宮の遺構の多くは、このあたりの錦織(にしこおり)という
地区でよく見つかっているが、ここは現在の近江神宮に近い
場所である、当時の建物は当然残っては居ないので、まあこんな
イメージということで、平城宮の写真を転用してみよう。
実は、近江宮まで、ただ単に遺構を見に行った訳でも無い、
近江宮は過去2~3度訪れてはいるが、何もなかったので
それだけ(天上の虹のゆかりの場所を巡る)で行くのはちょっと・・
と思っていたのだ。
なので、今回もまた、「スタンプラリー」と組みあわせている。
このスタンプラリーは京阪電車が主催するもので、京阪本線
ではなく支線である大阪の交野線(枚方~私市)と、滋賀の
京津線・石山坂本線において、各々指定3駅のスタンプだけを
GETすれば良いので、以前の記事で紹介した、大阪地下鉄全駅
108駅制覇とか、大阪松原市での長距離を歩くラリー等に比べて、
極めて容易なスタンプラリーである。
容易なだけに、子供向けイベントとなっており、実は、大人が
これをコンプリートしても、賞品がもらえないのだ(汗)
(賞品の缶バッジは、小学生以下限定となっている)
まあ、賞品はあきらめて、ともかくスタンプだけ全部押して
「コンプリートした」という事にしておこう・・
近年、平安遷都1200年(794年平安京→1994年)や、
平城京1300年(710年平城京→2010年)ということで、
京都や奈良では、古都に関する多くのイベントが行われた。
平城京イベントでの「せんとくん」は、ゆるキャラとしても
人気(有名)となったのは記憶に新しいところである。
ちょっと可哀想であったのは、持統天皇が開いた藤原京である、
遷宮は、諸説あるが694年と定義する説が有力であるのだが、
これは、有名な「鳴くよ桓武」の平安京の794年のちょうど
100年前であり、京都と同時期に遷都イベントを行う事が
難しかった模様だ。以下は藤原京資料館の職員から直接聞いた
話なのだが「あっち(京都)に比べると、マイナーなので・・」
という事であった。
まあでも、後編で述べる予定だが、持統天皇の藤原京は
日本初の条坊制による本格的かつ巨大な都である、
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で、大津京(近江宮)は、これらの古都イベントとは
タイミングが合わない667年である、1967年はとっくに過ぎて
いるし、2067年まで待つわけにもいかない、なので、上写真
のように「ほぼ1400年、大津はちょっと大人です」という
ポスターが飾られて観光誘致を図っている訳だ。
ちなみに、このポスターが貼られていたのは「近江神宮」だ、
近江神宮は、近年は「かるたの聖地」として観光施策が色々と
行われている、著名なのは、漫画・アニメ・映画(3月公開)
の「ちはやふる」とのコラボ企画である。
「ちはやふる」も面白い漫画なので紹介したいのであるが、
そこまで書き出すときりが無いので別の機会に譲ろう。
あと、近江神宮には「漏刻」のレプリカが存在している。
これは671年に天智天皇が作らせた「水時計」であり、
水の流れ方が一定である事を利用して時を刻む装置だ。
ただし、これは日本初ではなく、日本初は、建築マニア?の
女帝の斉明天皇が660年に作ったものが最初と言われている、
(まあ建築マニアと言うより、斉明天皇は前述のように、
大陸との外交施策として、日本が高度な文明国である事を
プレゼンする必要に迫られていたからだと思われるが・・)
でもまあ、天智天皇が作らせたこの「漏刻」を記念して、
これが作られた日である6月10日(新歴)が、「時の記念日」
として、その後の日本に定着したとのことである。
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さて、ちっとも「天上の虹」の主人公である「讚良」(持統天皇)
が出てこないのだが、彼女はこのころどうしていたのであろうか?
讚良は、657年すなわち、百済が滅亡する3年前に、13才にして
大海人皇子(後の天武天皇)に嫁いだ、讚良は天智天皇の娘で
あるから、その弟である大海人皇子は叔父となる。
まあ、でも、天智天皇と天武天皇は実の兄弟ではなかったという
説も存在する、このころの(まあ、後の時代でも)歴史的な
記述は、あくまで勝者の側によるものであるから、事実に反しても
都合の悪い事は、隠すか、改ざんされてしまっている可能性もある
という事だ。
そして、天智天皇との兄弟関係であること等においての日本書紀
での記述が不明瞭である事から(年齢が合わず、弟の方が年上?)
現代では天武天皇(大海人皇子)の生年は「不明」となっている
模様だ。
で、祖母である斉明天皇が、朝鮮出兵の準備で九州に向かった
661年に、讚良も大海人皇子に同行して九州に行ったとの事だ。
天智天皇と大海人皇子の関係は実に微妙である、
どちらも実力者であり、兄弟と言う以上に、むしろ政敵としての
関係性が強かった事であろう。
ちなみに、天智天皇は大海人皇子を相当警戒していた模様であり、
讚良の他にも自分の娘を大海人皇子に嫁がせて、血縁での結束を
固めようとしていた節が見られる、
漫画「天上の虹」においては、讚良が、父と夫との間で揺れ動く
心理なども上手く描写しているので、そのあたりも面白い。
その両天皇の関係を端的に表す良い例が額田王(ぬかたのおおきみ)
であろう。皇族であり百人一種などでの歌人としても著名であるが
もっとも有名なのは、天智、天武の両天皇との三角関係だ。
天智、天武が、絶世の美女である額田王を取り合ったという事が
一般に通説として知られており、額田王の作品である歌などからも
それをうかがえるという事だ。
また、万葉集でも「大和三山」を3人の関係にたとえ、
「香久山は 畝傍を愛しと 耳成と相争ひき神代より・・」と
謳われている、これもまた有名な歌であり、ますます三角関係説が
一般に定着していった理由にもなっている。
「天上の虹」をはじめ、様々な映像作品や小説などにおいても
当然、額田王のエピソードは欠かせず、必ず美女として描かれる。
しかし、この話もまた、後年に作り出されたものであるという
説もあり、あげくには「美女でもなかった」という説もあるのだが、
さすがに、その説は額田王のイメージを壊すという事から、あまり
一般的には受けが良く無い模様である。
まあ、美女であり、天智、天武が取り合ったという事にしておく
のが無難だと思うし、ちゃんと「天上の虹」でも、そのように
描かれているので”安心してください”(笑)
さて、政情が不安定なこの時代、ある意味、なかなか魅力的な
時代ではある、戦国時代や幕末と並んで、もっと人気が出ても
良さそうであるし、できれば大河ドラマなどでもやって貰いたい
と思っているのだが、皇室の直系の話でもある訳であり、
なかなかドラマなどで扱うのは難しいテーマかも知れない。
そういう意味では「天上の虹」は貴重な作品であるのだが、
まだ主人公の「持統天皇」の話が殆ど出てこないままだ(汗)
1つの記事では書き切れそうにないので、続きは後編で、
ということにしておこう・・