劇団舞台処女(げきだんまちかどおとめ)の秋の公演、
「現代演劇パレードde回転寿司」の模様より。
今回の公演は、豪華5本立てということで、この記事は
その2本目にあたる「斑女(はんじょ)」の観劇記事だ。
こちらは舞台大道具の設置の模様、
この後、ゲネプロ(最終リハーサル)が行われる。
大道具の周囲には、さらに、紙くずがペール用の透明の
ゴミ袋に詰められた物がいくつか置かれていく。
「舞台では、ずいぶん沢山のゴミが出るんだなあ」
と思っていると、これもまた大道具の一部である様子だ。
いったいどんな劇になるのであろうか?
この「斑女」という作品は、三島由紀夫原作、という事が
パンフに書いてあった。、
三島由紀夫氏といえば、作家で、「金閣寺」とか「仮面の告白」を
書いた方だったかな、確か数十年前に軍服姿で割腹自殺をした人だ。
ただ、残念ながら私は三島由紀夫氏の小説を読んだ事はなく、
ましてや「斑女」という作品についてもまったく知らなかった。
さあ、いよいよ舞台が始まる。
匠「むう、いきなり出ましたね!」
劇団舞台処女(げきだんまちかどおとめ)第五代目団長の
”安田明日香”嬢だ。
彼女は本劇団に入団して僅か2年にして団長就任、
デビュー当初から彼女のすべての舞台を見ているが、
どの劇も役の本質をつかむ技巧的な演技で、印象深い。
匠「しかし、すごい”老けメイク”だなぁ・・」
彼女の実年齢はかなり若く、また他の舞台公演の写真を見て
いただければわかるように美人女優なのだが、今回の舞台は、
まあ、どう見ても生活に疲れたオバチャンという雰囲気だ。
それに表情がまた凄い、なにかに取り付かれたような眼光が
とても鋭く、見るものをはっとさせる。
動作も非常にゆっくりだ、ただ、スローモーというのではなく、
日本舞踊か能でも舞っているようなスムースな印象を与える。
匠「ふうむ、かなり上達したなぁ・・」
舞台に立って、ものの1分でそれがわかるというのも
驚くべきものがある、相当稽古を積んだのだろうか?
あるいは、どんな役柄でもこなしてしまう天才肌なのか・・
今回の安田団長の役柄は、”実子”(じつこ)という40歳の
絵描きで、何やら彼女の近親者が新聞記事に載っているようだ。
しかし、実子は、それを嬉しがるどころか、逆に憎しみでも
持っているように、新聞をビリビリと切り裂いてしまう。
匠「う~ん、なかなか怖いですなあ」
深い愛憎の感情、あるいは狂気の一歩手前、
そんな難しい舞台表現を、不自然に過剰にならず、
抑えた演技の中から見事に滲ませている。
実子の独白を聞くと舞台の状況が少しづつわかってくる、
どうやら、実子は、若い美女の”花子”をこの家で養って
いるようだ。この時点ではそうなった経緯はわからないのだが、
実子のここまでの演技から、花子への感情は明白だ、
つまり、実子は花子を独占したいわけだ、
その花子の事が何やら新聞に載ってしまったので、独占欲が
昂じたのか、あるいは、現在の人知れず花子と暮らしている
蜜月のような状態が崩されてしまう、何らかの危機の予兆が
するのか・・・?
ちなみに”人知れず”暮らしているという状況は、舞台の大道具を
見れば容易に想像できる、ぐちゃぐちゃの部屋、あるいは舞台
周囲のゴミ袋、そして画家だ、という実子も、どう見ても売れて
いそうになく、貧しい様子だ。
そんな状況の中、実子は、花子に依存して生きているのであろう。
その、件(くだん)の"花子”がついに登場。
散らかったアトリエ(?)にしずしずと入ってくる。
役者は、新鋭の”丸本五月”嬢、たしか本作品で2度目の
出演だったか。
こちらも、ふわふわとゆっくりとした足取り、しかし実子の
それと異なるのは、実子の足取りは舞を舞うように優雅に
見えるのに、花子は、まるで意識や自我を持っていないような、
足取りだ。
実子は、見かけは老けた女性である(注:前述のように実際の
役者さんは若い美女である)のだが、その舞うような足取りは、
むしろ妖艶でもある、見かけと裏腹なこの動きが意味する処は
おそらく、それが実子の内に秘められた”何か”だからなので
あろう。 それは、おそらく愛憎・・? いや、まだ舞台のこの
段階ではなんとも言えない。
今回の演出は”そあら”氏、聞きなれない名前であるが、
他の劇に出演する主役の役者さんが、この劇の演出を行って
いるようだ、普段メインで演出を行う"断寝”氏は、おそらく、
(団員が増えてきた本劇団の)若手の育成や指導の為に、
今回はあえて役者あるいは裏方に廻っているのであろう。
”そあら”氏の演出、いったいどこまで計算されているのか?
これらの役者の動き(足取り)は、演出上なのだろうか?
あるいは偶然なのだろうか、あるいは役者の本能や演技なのか?
興味はつきず、だんだん舞台が面白くなってきた。
暗く落とした照明に見た目も鮮やかに映えた黄色のジャケットを
脱ぎ捨てた花子、なかなかの色っぽさだが、それよりも、まるで
人形のような顔立ち(&メイク)と、髪型が印象深い、
つまり、これは役柄で言えば、花子は実子の”人形”、
すなわち愛玩物である、ということなのであろう。
なんの説明もなしにそれを彷彿させる、ということは、
まさしく”適役”ということなのだろと思う。
あるいは”演出の妙”であるのかも知れない。
人形の花子は、実子に、体中に羽根のようなものをつけられていく。
なかなか妖艶なシーンだ、おまけにこれは間接的に2人の関係をも
示唆している。
つまり、芸術家である実子は、花子の”美”を愛し、それを
独り占めしたいのだ。
実子のなすがままにされる花子。
花子には、何の意思も無い様子だ、これはまさしく人形か?、
それとも、花子は狂気の世界で生きているという事なのか?
舞台のセリフからわかってきた事は、花子は、以前、”ヨシオ”
(吉雄?)と言う男に恋した。出会ったのは、花子が働いていた
料亭あるいは旅館といった所であったようなので、花子は芸者で
あったのかもしれない、そのあたりの言い回しから、この劇の
時代背景が、21世紀の現代なのではなく、数十年から百年程
前の時代であることに気がつく。
なるほど、この劇の退廃的かつ耽美な雰囲気は、その時代の
イメージがよく似合う。
花子は、ヨシオと、”扇”を交換した、
それは勿論、愛の証であり、お互いを待つという意味であろう。
ところが、いくら待ち続けてもヨシオは姿を見せない、
そのうちに花子は精神に異常をきたしてしまった、
仕事にも集中できなくなり、料亭(旅館?)でも、花子を
もてあましていたところに、そこに実子が表れて、花子を
貰い受けてきた、まあ、そいうったストリーの流れだ。
冒頭の新聞の件は、花子のそのあたりの実話が一種のロマンチック
な美談として新聞に載ってしまった、という事なのであろう・・
今時だったら、そんな事がニュースになることは、まずあるまいが、
まあ、明治や大正の昔てあれば、それもまたありうるのかも知れない。
実子は、その新聞記事がヨシオの目にとまって、花子を連れ戻しに
来ることを恐れている訳だ。
花子は、実子に、いいように弄(もてあそば)れている、
だが、”扇”だけはいつも肌身離さず持っているようだ。
つまりこれは、気持ちはあくまでもヨシオさん一筋という事。
このあたり、小道具の使い方がなかなか効果的だ。
---
シーンは変わり、1人で留守番をする実子、
花子は、外に出ている、おそらくは駅にでもヨシオさんを
探しに行くのが日課となっているのであろう。
そのとき、実子の家(アトリエ)を訪れる1人の男性の姿が・・
実子は直感する、「この人がヨシオさんに違いない」と。
本物のヨシオさんであれば、花子を連れていってしまう、
それは実子にとってみれば、あって欲しくないシナリオだ、
実子は、「花子なんて知らない、ここには居ない、あなた誰?」
と、ヨシオを家に入れることを頑なに拒む。
あるいは、また、「仮に、あなたがヨシオさんだとしてもその
証拠はあるのかしら? たまたま新聞を見て来ただけの人では?」
とも言い放って、あくまで実子は抵抗の姿勢を崩さない。
すると、ヨシオは、花子と交換した、と言う"扇”を証拠として
持ち出す。
ちなみに、ヨシオを演じるのは、本劇団の重鎮”断寝俊太郎”氏だ。
本番の公演では、”断寝”氏と、以前”よろめきジャック”を
好演した”木下駒”氏ダブルキャスト(交互に出演)となる。
ヨシオ「さあ、花子さんは何処ですか?
出かけていられるなら、待たせていただきますよ」
と、当然のように長期戦も辞さない覚悟だ。
対して、実子は、ヨシオが何年も花子を待たせていた事を責め、
花子を連れ戻しに来る資格など無い、という言い分で対抗する。
実子の凄い剣幕にもひるまないヨシオ。
そこで実子は、さらに過激な行動に出、力ずくでもヨシオを
追い帰そうとする。
匠「ふうむ・・筋書きの仕立ては、ちょっと古風な感じだな・・」
まあ、舞台を見ていてそう思ったのも無理も無い、
舞台を見終わった後調べたところによると、この劇のシナリオ
自体は非常に歴史が古い。
古い、というのは、どれくらいかというと、なんとまあ、室町時代だ。
猿楽(=能)師の”世阿弥”(ぜあみ)という人の名前は、多くの人
が聞いた事があると思うが、この世阿弥が作った、能の1作品が
「斑女」である。
「斑女」の「班」とは、中国の前漢の成帝(紀元前33年に皇帝に即位)
の愛人の”班ショウヨ”という女性を意味する、この方が大元のモデル
という訳だ。
ふうむ、ちょっと古風どころか、モデルにいたっては、キリスト
よりも古い人物ではないか・・(汗)
その、紀元前の女性をモデルとして、およそ1400年後に世阿弥が
能を作った。
世阿弥の能の「班女」のストーリーでは、
”本名を花子という遊女は、扇を愛好し班女と呼ばれた。
あるとき花子は 吉田の少将と恋に落ち、互いに扇を交換する・・”
とある。
匠「なんだ、室町時代だと言うのに、現代の話と一緒ではないか」
そして、世阿弥の能からさらに600年近くの時が流れ、
三島由紀夫が戯曲集の1作品として”班女”を現代に蘇らせたのは
1955年の事だ、三島由紀夫バージョンの”班女”は、世阿弥版とは
ラストが異なるという事なのだが、その事は”班女”について
まったく知らない状態で舞台を見ている最中はわからないし、
そもそも、今回の劇では、どういうエンディングになるかは、
予想もつかない・・
舞台では、花子が外出から戻ってきて、ヨシオに出会ってしまった。
まさに能のような動き、しかも妖艶な雰囲気を漂わせている。
花子とヨシオは、(交換していた)お互いの扇を確認する、
いよいよ、お互いの思いがかなう時がくるのだろうか?
いや、しかし、ちょっと様子が変だ・・
花子は、どうも、ヨシオが”ヨシオさん”である事を
認めたくない様子だ。
まあ、なんとなくわからないでもない展開だ、
待ち続ける事に慣れてしまい、待つことで希望の光を得て、
それ故に花子は今を生きて行くことができる。
その望みがかなってしまったら、その後は、どんな希望を
持って生きていけば良いのか?
訳がわからず、呆然とするヨシオ。
ヨシオ「花子さん、いったい何を言っているんだい?
ボクだよ、ヨシオだよ・・」
花子「アナタなんて知らない!」
匠「ビ、ビンタですか・・(汗)
まあ、ストーリー的には、わからないでもないけど
でも、ヨシオさんの立場からするとは、何でこうなったのか
わからないだろうなあ・・ 女心というのは複雑だよね(汗)」
続けて何度も頬を打たれるヨシオ。
こうなれば、ヨシオはもう帰るしかない。
花子の恋愛は成就せず、待ち続けることを選んだのだ。
つまり、現実のヨシオさんではなく、ずっと待ち続けた”理想の
ヨシオさん”を、花子は、これからも待つことにしたのであろう。
さて、そろそろエンディングであろう。
ここからどう終わるのか・・・?
さて、花子は、これからもずっと待ち続けるのか?
あるいは、ヨシオさんが再び戻ってきて、無理やりにも
ハッピーエンドに持っていくのか?
それとも・・?
ヨシオが帰り、2人になると、実子は、花子を羽交い絞めにして
首を絞める。
ヨシオに渡すくらいなら、いっそ永遠に自分の物にしようという
考えなのか? それとも、今のヨシオと花子のやりとりを見ていて、
花子が理想のヨシオさんを夢見ていたように、実子も理想の花子の
イメージを持っていて、それが崩れてしまったのであろうか?
花子は、ぐったりして壁に繋がれている。
ああ、もう駄目だろうな、この分では、悲しい結末も近い。
不敵な笑みを浮かべる実子、
すべてが狂気の世界の中に溶け込んでいく。
そこでマッチを取り出す実子。
マッチを擦って、繋がれている花子の方に、ぽんと投げる。
そして、すべてが燃えていく・・・
使用したのは秘技(笑)回転撮り。
カメラを縦位置からさらに45度程傾けて構え、1/30~1/45秒程度の
スローシャッターとして、カメラを回しながら撮影する。
画面が回転して流れる様子を表す事は容易だが、動かない中心点を
ぴったり安定して決めるのは難しい、通常は数回トライするのだが
劇中なのでチャンスは少ない、回転軸が多少ずれてしまったが、
まあご愛嬌という事で・・
----
劇団舞台処女(げきだんまちかどおとめ)「斑女(はんじょ)」は
これにて終了。
匠「うん、なかなか良かった」
今回の”まちかど”の5つの劇のうち、私はこの舞台が最も
気に入った(まあ、まだ2つしか記事で紹介していないが・・)
三島由紀夫の原作が良いのか、あるいは演出の”そあら”氏の
工夫によるものなのか、はたまた、元々の世阿弥の筋書きが
優れているからなのか?
まあ、終わってみれば、救いようの無い程の暗い結末なのだが、
名女優"安田明日香”の演技力により、ストーリーの背景にある
複雑な心理描写も見事に表現できていたと思う。
帰宅後、世阿弥と三島由紀夫のそれぞれの「斑女(はんじょ)」の
ストーリーを調べてみた、いずれも、この劇とは異なる結末に
なっていた。
世阿弥版では、花子と吉田少将は、ハッピーエンド。
三島由紀夫版では、花子と吉雄は、やはり花子は吉雄を拒否し、
ずっとその後も待ち続けることを選択したようだ。
この劇のラストは、オリジナルの演出であるのだが、当然演出の
”そあら”氏は、世阿弥、三島のどちらの原作も読んで、そこから
何か新しいものを創作しようとしたのであろう。
なかなかの舞台で、十分堪能できた。
さて、次回の観劇記事は、また今回の劇とはがらりとイメージが
変わり、大正時代の若夫婦の日常生活のストーリーを、”まちかど”が
現代風にアレンジして蘇らせた作品「紙風船」だ。