随分間が空いてしまったが、「島シリーズ」の真鍋島(まなべじま)編の
4回目。 ここに行ったのはもう半年も前の事だ・・・(汗)
記事を書いたまま放置してあったのだが、さすがに年を越すわけには
行かない、今のうちに・・(笑)
ブログ記事の季節感というのは意外に重視されるポイントと思われ、やはり今の
時期なら色々なブログで紅葉やクリスマスイルミネーションの記事を見るのであるが、
まあ、たとえば南半球在住のブロガーや読者の方もいるので、実のところはあまり
季節感とか意識しなくてもいいのかもしれない・・
さて、真鍋島だ・・
のんびりした休日をこの瀬戸内海に浮かぶ離島で過ごす。
この島には観光名所・名跡もなければ、近代的なレジャー施設も無い。
でもまあ、そんな場所だからこそ、のんびりできるのであって、
やれ観光名所だ写真をパチリ、レジャー施設ださあ遊べ・・ では、
決してのんびりとできないだろう・・
以前の記事で、この島はどこを撮っても絵になる、と書いた。
でもそれは、都会的あるいは観光的な気持ちや目線のままで
それをやろうとすると「何も撮るものがない」で終ってしまう。
あくまで、気持ちの切り替えが先にあるのが前提である。
「新・関西の楽しみシリーズ」では観光目線に寄らないで写真を撮ると
いつも書いているのだが、この島シリーズでは、もともと観光地でも
何でもないところで撮るわけだから、そのあたりの感覚はまた違った
ものになる。
そりゃ、まあ、瀬戸内海の離島であるから景色は綺麗だ、
けど海が綺麗だからと言って、海の写真を1枚パチリでは、
それもまたせっかくこの島に来た、という理由が無くなってしまう。
記録的に記念写真を撮るというよりも、その地を記憶に残すような写真が撮りたい
わけなのだ。 だから視線も島の外に向かってではなく島の中に向かって行く。
(島からの海や景色が綺麗だからと言って、外ばかりに視点を向けないという事)
高低差の激しい島であるが、それでも色々歩き回っていくと、この島の自然や
素朴な生活というものが、歩いていくにしたがいだんだん浸透していくのがわかる。
観光地をバスで巡るようなツアー
ガイドさんが「はい、ここが有名な△△でございます」
観光客が「ほ~、これがそうか・・」パシャリ、パシャリと、真昼間にフラッシュを
炊きながら(苦笑)撮影するという、そんなツアーに来ているわけでは無い。
だからまあ、自由に歩いて、自由に写真を撮っていけば良い、ただそれだけだ。
「何も撮るものが無いよ。 綺麗な場所も無いし、珍しいものもない」
そう思ってしまうとつまらない。
別に何を撮っても写真にはなる、たとえそれがごくありふれたものでもだ・・
カメラを持って歩くことが当たり前になってくれば、そこでわざわざ珍しい
ものや綺麗なものを探して、それだけを写真に収める、という必要も無くなる。
また、オレには(ワタシには)創造性もセンスも何も無いから・・・と、そんな風に
否定的に考える必要も無い。・・・・それはむしろそう思い込んでいるだけで、
自分が撮りたいものをあえて撮らないように制限をかけてしまっている
ようにも思えてしまう。(たとえば綺麗な風景じゃあないと写真を撮らないなど)
それがどんなありふれたものであっても、その時、その場所で見る光景は
その一瞬でしか出会えないものであるから、何かを感じたら写真に撮って
おくのが良いのであろう。
ただ、それは記録ではなく、記憶なのだから、あまり説明的に撮っても
面白くない、その場で自分が感じた事を、写真を撮るという行為と
組み合わせれば良い。
写真を撮る事を肩肘張って何か特別な行為だと考えてしまうのは良くない。
決定的なシャッターチャンスをものにしようとか、この花をもっと綺麗に
撮ってやろうとか、そんな風に考えていると、自分の持つ感覚とか記憶とかの
世界からどんどん外れていってしまう。
記録的な要素の高い写真であっても、それは、あくまでも自分自身の記憶の
断片として捉えれば良いということなのであろう。
そうすれば、いつまでも、その写真を見てその場その場の光景や感覚を
自分自身の中で思い起こせる事ができるのだろうと思う。
現に、半年前のこの写真であるが、その時の記憶がありありと浮かんでくる。
写真とは、そういう物ではなかろうか・・・?