浦沢直樹氏による「鉄腕アトム」のリメイク判の漫画(劇画)「プルートー(PLUTO)」
は大変面白い作品となってロングランを続けている。
考えてみれば、鉄腕アトムには「科学の子」というキャッチコピーがあった。
そう、1960年代、高度成長期にさしかかろうとしていた日本においては、科学の発展
こそが世の中に幸福をもたらすものだと思われていたのであろう。
手塚治虫氏は21世紀の日本を、ニ重三重の高速道路が超高層ビルの間を縫い、
空を飛ぶ車やロボットと人間の共存世界を描いていた。
しかし、アトムの誕生年とされた2003年を3年すぎた現代においても、空を飛ぶ車で
通勤をすることは無いし、ロボットは産業用かペットロボットしか市販されてはいない。
勿論ロボットの体内に入るような超小型原子炉もなければ、人間のような感情をつかさどる
電子回路も開発されてはいない。
ただ、それが悪いことでは無い、人間は進化の方向性を単に100%科学技術に頼ることを
しなくなっただけなのである。
多額の費用がかかる宇宙開発は早々に規模を縮小され、21世紀には人間が月や火星に
移住するという計画も、あるいは宇宙旅行も簡単には実現しない夢となった。
そして航空機が誕生してからわずか100年、コンコルドの開発により天井知らずと思えた
航空機開発も、70年代のジャンボジェット以降、素人目にもわかるような派手な技術革新
は陰を潜めていた。
先見の目に優れた手塚治虫氏や、あるいはロボットSFの大家、アイザック・アシモフ氏
でも予想ができなかった事は、現代のPCあるいは通信技術の発展であろう。
冒頭の「プルートー」では、アトムで著名なキャラクター「御茶ノ水博士」のパソコンには
未読メールが120通も来ていて、いっぱいいっぱいになっている様子が描かれている。
30年以上のロングランを誇る劇画「ゴルゴ13」においても初期のゴルゴへの連絡手段は
ラジオから流れる賛美歌13番であったなどの設定であったのが、近年ではゴルゴ
専用回線を使った電子メールにより狙撃の依頼がされている。
さて、カメラ(レンズ)の進化を考えてみよう。
ライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年、この年に(現在の)カールツアイスにより、
テッサー型レンズが発明(開発)された。
このテッサー型レンズは3群4枚という単純な構成ながら、優秀な描写力を持つレンズで
あって、ある意味写真用レンズの基本というレンズ構成である。
ちなみに、カメラ用レンズはけっして1枚の凸レンズから出来ているわけではない、
複数の凸レンズと凹レンズを組み合わせ、収差を消したり画質を向上したりしている。
収差というのはレンズの欠点である。
たとえば1枚の凸レンズ。 これは虫眼鏡を想像してもらっても良いし、マクロレンズの
代わりに使われることもある近接撮影用の「クローズ・アップ・フィルター(レンズ)」と
思ってもらっても良い。 これらのレンズで例えば新聞などの文字を拡大してもらえば
すぐわかるが、中央の部分は文字が読めるものの、周囲は画像が流れて文字を読む
ことができない。
実際の収差にはもっと色々な種類があるのだが、これは一番わかりやすい例である。
で、凸レンズと凹レンズを組み合わせて使うと一部の収差が消える。
あるいは凸と凸を組み合わせたり、それらの曲がり具合(曲率)を変えたり、そのように
様々にレンズを組み合わせることでカメラ(写真)用のレンズができあがる。
ちなみに天体望遠鏡や、野鳥観察用のフィールドスコープにおいては、画面中央部の
解像度や収差の少なさに重点を置いた設計がなされているが、これは観察対象が
画面中央部だけで十分なことからであって、画面周辺部までの画質は保証されていない。
対してカメラ用レンズは、画面周辺までできるだけ均一な画質を得られるように設計されて
いる。
したがって、近接撮影を行う場合、マクロレンズの代わりにクローズアップレンズを
使った場合。 あるいは望遠撮影を行う際に、カメラ用望遠レンズの代替として望遠鏡を
用いた場合、もしくは2群4枚などのシンプルなレンズ構成を用いた(通販などでよく
販売されている)望遠鏡タイプの設計による超望遠レンズを用いた場合などでは、
画面周辺部の画質まではあまり期待できないということになる。
まあ、それでも、花のマクロ撮影などでは、クローズアップレンズを用いた場合の
画面周辺に流れるような画質の低下が、むしろ中央の花を、文字通りより「クローズアップ」
する表現を得れるわけであるから、一概に、画質の低下=悪、というわけではない。
レンズ構成を表す用語として、△群◇枚という風に言われているが、
◇枚というのは、文字通り、レンズの構成枚数である。
凸レンズ、凹レンズの区別なく、4枚ならば4枚、5枚ならば5枚とシンプルである。
△群というのは、たとえば凸レンズと凹レンズをぴったり貼り合わせて1枚のレンズを
作った場合など、その1つのかたまりを群という呼び方で表現している。
だから、テッサー型レンズの3群4枚においては、レンズの枚数は4枚であるものの、
そのうち2枚は貼り合わせてあって、1つの群を構成しているということがわかる。
どの2枚をどういう風に貼り合わせてあるかは、レンズ構成図を参照しないと数字だけを
見ただけではわからない。
そして、△群◇枚というのは、△は絶対に◇より大きな数字で無いことも確かである。
テッサーという用語は、現代でも「化学」などで使われる、数字の読み方のラテン語読み
(あるいはギリシャ語読み)に大きく関連している。
ラテン語またはギリシャ語では、1、2、3、4・・ という数字は、
モノ、ジ(ビ)、トリ、テトラ、ペンタ、ヘキサ、ヘプタ、オクタ、ノナ、デカ・・・
という風に呼ばれている。 これらの呼び方はカメラの用語でも一般用語でも実に良く
使われている。
では例をあげよう、
1=モノ モノポッド(一脚)、モノトーン(一色)
2=ビ ビ・ノキュラー(双眼鏡)、バイ・スクル(車輪が2つある=自転車)
3=トリ トライポッド(三脚)、トリプレット(構成が3枚の写真用レンズ)
4=テトラ テ・ッサー(4枚からなる写真用レンズ)、テトラポッド、テトラパック
5=ペンタ ペンタックス(5面体プリズムを採用したカメラメーカー名)、ペンタゴン
6=ヘキサ ヘキサー(さくら=小西「六」=コニカ のカメラやレンズ名)
・・・
こんな感じである、それ以上の数字は、ハイオク(=ハイオクタン=炭素数8のオクタンを
多く含むガソリン)や、デシベル(音響単位でベルの10分の1)、デカメロン(10日物語)
とか、あまり多くは使われていないが確実に写真あるいは科学・化学用語や(補助)単位系
として定着している。
テッサーはシンプルで優秀なレンズ構成であったため、カールツアイスの特許が切れた
20世紀前半においてから、多くのカメラに使われはじめた。
そして発明から100年を経た現代でも、多くのコンパクトカメラなどに使われている他
そのものズバリの「テッサー」レンズも、ほんの1年ほど前までは、京セラコンタックス
よりカールツアイスブランドで発売されていた。(注:35mm一眼レフ用の場合)
勿論今でもY/C(ヤシカ・コンタックス)のツアイスのテッサーは中古あるいは新品
在庫で容易に入手することができる。
ただ、テッサーがいくら優秀なレンズとは言え、発明(開発)からすでに100年以上の
時が流れている。 その間に、ライト兄弟の複葉機は、動力付きのプロペラ機に進化し、
わずか40年もたたない間に、第二次大戦における「零戦」のような傑作航空機を生み出し、
戦後はジェット機に進化、ライト兄弟から僅か70年で、ジャンボジェットやコンコルド、
あるいは、米軍のF-14トムキャット戦闘機等の航空機にまで進化していた。
現代でもマニアが信奉するライカレンズなどは、その「零戦」のあたりのプロペラ機の
時代に設計されたものも多い。
では、冒頭の「科学の子」における科学技術の進歩や、航空機の進歩が一見して
30年前から止まってしまったかのようにカメラ用のレンズの進化も止まってしまった
のであろうか?
いや、そもそも、科学は宇宙開発やロボットや空を飛ぶ車の進歩とは別の方向性で
進化したのであって(たとえばインターネットや携帯電話)、また航空機も別の側面で
進化しているのであって(たとえば燃費やら姿勢制御技術やら操縦の自動化)
カメラのレンズも別の側面で進化していると言えよう。
具体的にはズームレンズ。 3群4枚やら、5群7枚のレンズであれば、人間の設計者が
図面上に膨大な光路の線をひいて設計できたのが、現代のズームにおける15群19枚
などという複雑な構成を持つズームでは、人間による手動設計など不可能であり、
コンピュータが与えられた条件(たとえば収差やら、画質やら性能のどこに重点を置くか)
による自動設計になっているわけである。
だから現代のズームレンズは、30年前のそれと比較して比べ物にならないくらいに
優秀になっている。
本来、単焦点レンズはズーム機能が無い分、画質的にも重量的にも開放F値の面でも
最短撮影距離やボケ味の点でも、すべてにおいてズームを上回るのが当然であった
のだが、ズームレンズの進化に重点を置いたメーカーの開発思想から、10年前や
20年前の設計のままで現在も販売されている優秀だが古い単焦点より、現代の
ズームの方が一部の性能において優れているという状況になってきている。
しかしズームレンズの開発技術を単焦点レンズの設計に応用したら、昔の単焦点は
おろか現代のズームですら足元にも及ばない高性能のレンズを作り上げることができる。
その例としては、私が良く言う「スーパーレンズ」としてあげているような、
フォクトレンダー・アポランター90/3.5SLであったり、あるいは、ペンタックス
FA77/1.8Limited であったりするわけである。
ただ、それらのレンズは、「ズームが無い」ことから、初級者はおろか中級者やベテラン
カメラマンにいたるまで、あるいはプロにいたるまで知られることは無く、一部のマニア
だけが知る、つまり知る人ぞ知る銘レンズになっているわけである。
初級者はレンズの性能がわからない、と言われるがそれは事実であろうか?
いつも言っていることだが、初級者とベテランとで画像を見てそれを判断する能力に
差は無い。 だから、初級者といえどもレンズの性能がわからないというはずは無い。
あくまでこれは沢山のレンズの画像を見てきた経験から来ることなのであろうかと思う。
だから、アマチュアとプロでも基本的にその差があるわけでもない。
たとえプロであってもいつも同じレンズばかりを使っているようであったら、いつまで
たってもレンズの性能比較をする能力など経験的に身に付くわけもない。
あるいは年齢からくる画像・音響認識能力の衰えというものは存在するのであろうか?
良く言われることは、音響、それも高周波音の認識能力の年齢からくる減退である。
本来、人間は、20Hz(ヘルツ)~2万(20K)Hz の音を聞けると言うのであるが、
一般に2万ヘルツの音が聞こえる人は少なく、年齢とともに高音の限界が1万になったり
8000になったりしてくるのである。
私の場合、元音響エンジニアであったから高周波音を聞ける事は重要な能力であった。
健康診断などでよくチェックされる「聴力」では、8000(8K)Hz(ヘルツ)の音が聞こえるか
聞こえないか、であるが、音響にかかわる人間としては8Kが聞こえないのは大問題である。
今回、これらの写真を撮った「科学技術館」で、高周波の発振機があったので、
自分の高周波特性(聴力)をチェックしてみた。
その結果は、13800Hz(ヘルツ)までしか聞こえなかった(う~ん・・)
2万は絶対無理であることはわかっていたのであるが、せめて15000くらいまでは
聞こえて欲しかったのが本音であったのだが、まあ、1万以上の数値は、1万が2万に
なってやっと音程の上では1オクターブかわるだけであるから、1000や2000の違いは
大きな問題では無いとして、これはこれで良い数字として納得しなければならないのであろう。
現に音響にかかわらない一般の人であれば1万ないし12000程度で苦しくなってくると思う。
ただ、高周波が聞こえるということは、オーディオを聞けばその欠点が耳につくし、
一般生活でも、話し声や雑音が非常に耳につくという弱点にもなりうる。
私の場合、それを「職業病」と称しているが、基本的に騒がしい場所では極端にイライラ
してしまうという問題点にもなっている。
さて、話が横道にそれたが、画像の認識能力はどうなのであろうか?
JPEGの原理を学ぶと「空間周波数」という用語が出てくる。
これは画像の(周期的な)細かさを表すものと思って良い。
目のよさを表すのは、単純に「視力」だけでは無いと思う。
まず、レンズで言えば最短撮影距離に相当する、ピントの合う範囲があるわけだし、
それと視度(=近視か遠視か)という面とは大きくかかわってくる。
あるいは、視力や視度以外に、その「空間周波数」の認識能力というのは、やはり音響と
同じように年齢とともに衰えていくものなのであろうか?
いや、それについての定説や論文というのは記憶している限りでは見たことが無い。
まあ、それはつまり大きな問題にはなりえないということなのであろう。
だとすれば、元の話に戻って、画像の良し悪しを判断する能力というのは、
初級者だからとかプロだからとか、男だから女だから、とか、シニアだから若いから、
とか言う要素で大きな差が出るものではないと思う。
だから、レンズの画質評価というのは、個人の(身体的)な能力や環境には大きく依存しない
つまりレンズの画質がわからないというのは単に、そうした画質を評価する経験が不足して
いることにすぎないのであろうと思う。
初級者に、50/1.4や85/1.4、90/2.8マクロの近接撮影、などの「背景が大きくボケる」
レンズを持たせると、ともかく背景を大ボケさせたばかりの写真を連発してしまう。
ボケ表現が珍しいから、つまり肉眼で見た映像と違うからそれを自らの「表現」と勘違い
するから、あるいは、今までのズームレンズやコンパクトカメラでは背景がボケなかった
のがそれができる物珍しさから、そう言った要素で背景ボケだけの写真、いわゆる
「ボケラー」をしてしまうのであるのだが、まあ、実は問題はそこでは無い。
問題は、その背景大ボケ写真において、そのボケ質(ボケ味)が写真的に汚いもので
あっても、「いいボケをしていますね」というコメントが寄せられることである。
つまり、それはボケの量とボケの質の区別がついていない事になる。
いくらボケの量が多くても質が悪ければ何もならない。
たとえベテランのフォトグラファーであっても、そうしたようにボケ量とボケ質の区別が
まったくついていないことがある。
じゃあ、ボケ質の見分けがつかないのは、身体的能力の差であるのか? 否、それは上で
述べたように、画像認識能力は、年齢や性別に大きくは左右されるものではないと思う
のである。
じゃあ、何故画質が評価できないか? それは大きな1つの理由として機材に対する経験
不足、あるいは言葉を変えれば機材への関心の無さ、だと思う。
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デジタル時代になって、銀塩時代ほど画質については神経を払わなくでも良くなってきた、
それは何故かと言うと、銀塩時代は画質の優れたものは良い写真であるという文化的な
背景があったからである。つまり高画質を得るための機材選択や撮影技術はノウハウで
あり付加価値でもあった。
しかしデジタル時代、ズームレンズの進化や画像処理エンジンの進歩、そしてアフター
レタッチによる画像処理技術の進化により、高画質はむしろ当たり前。
だからこそ高画質は付加価値ではなく、表現力が求められる時代になってきている。
もうひとつ、そんな時代だからこそ、画質への意識が極めて低いフォトグラファーが増え
結果として機材選択(特にレンズ)に対する経験や認識不足の人が増えている。
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「レンズ沼」にハマって「零戦」や「コンコルド」の頃のオールドレンズに興味を持つ
人も増えている。 それはそれで悪い傾向では無いのだが、画質評価能力という面から
見て現代のレンズと違う写りをするから、それが良いとか悪いとか、そういったものでも
無いと思う。
あくまで多くの機材を使う経験というのは、純粋に高画質と低画質のそれぞれのピークの
差を認識し、自分の中で絶対的なスケール(判断基準)を経験的な認識として身に付ける
ことが重要なのだと思う。
その為には機材にも神経を払わなくてはならない。
最近のこのブログの記事では、ハード面よりソフト面、すなわち機材よりも写真の撮り方
や撮る為の心構えについての記事が圧倒的に多くなっている。
それは現代の風潮や読者のニーズからしては当然のことなのであるが、それでもやはり
バランス感覚は必要である。
表現派と称して機材への関心や投資を失っては何もならない、そして、その機材への
関心も撮影手段(手法)の拡張という部分以外にも、あくまで画質評価の価値観をも
身に付けていく手段として重要なのであろうと思う。
デジタル一眼を買ってデジタル写真を撮っているからと言って写真を撮る上での
ランニングコストがゼロになるわけではない。
デジタル一眼を買う時のオマケズームで満足していたら、写真の奥深さの入り口にすら
達して無いに等しいと思う。
以前からよくこのブログで書いたように、10万のボディ(カメラ)を買うならば
レンズへの投資は、20万~40万円は覚悟しておく必要がある。
「ワタシは今のレンズも使いこなせてないから、レンズへの投資は不要だ」と思うなかれ、
レンズが無いから見えてこない技術も技法も経験も知識も表現も、いくらでもある。
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レンズあるいは機材への投資を行わないことは、写真という面での「科学的な」進歩すら
止めてしまうことにならないのであろうか?
科学の進歩は目に見えるところでは止まってしまっているのかもしれないが、
目に見えるところというのは、デジカメで言えば単に画素数の向上や手ブレ補正機能の
追加や、ゴミ取り機能の採用・・・ そして実際には注目するべきはそこではない。
本来は派手に見えない部分、つまり操作系の進化や、あるいは、写真を撮影する上で
最も重要な「レンズ」の進化、ここのあたりに重要なポイントが隠されているのでは
ないであろうか・・・
参考過去記事(主にボケ質(ボケ味)について)
中級編:ボケ量とボケ質
【玄人選科】絶滅寸前?幻の「STFレンズ、DCレンズ」実写
【玄人専科】ツアイス復活~PLANAR T* 85/1.4 ZF
【玄人専科】デフォーカス・イメージ・コントロール
【玄人専科】名レンズと共に歩く(4)~今井町編
中級編:大口径ボカシ主義