さあ、バトンシリーズ第二弾。
例によって長文なのであるが、ほとんどが私の独り言なので、そんな個人のたわごとに
興味が無ければパスしてもらっても結構である。(下に軽い記事も用意している)
ブログではできるだけ一般的に有益な記事も書いていきたのだが、ともかく今回は
単なる個人のつぶやきと思ってもらえれば良い。
テーマ2:この『写真』に感動
前回のテーマでも感じたのであるが、どうしてこのテーマを考えた人は、
思考を内へ、内へと向けてしまうのであろうか?
皆が個人的な好き嫌いを書いても統計的な情報としての付加価値は乏しい、
それともバトンを考えた人は、全部のブログを回ってそれらの結果を集計して、
価値のある情報として皆にフィードバックしてくれるのだろうか?
バトンを考え、無責任に垂れ流すだけだったら、意味が無いのではなかろうか?
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さて、前回のテーマ(1)で、目の前にこんなに雄大な風景があって、それを写真に
撮ると、大幅にスケールダウンして、その場の感動のかけらも写し出してなかったという
話しをした。
それはそうだろう、まずは風景と写真ではスケール感が全然違う。
そして目に入る映像以外にも、実際には、鳥のさえずり、木々の匂い、さわやかな風・・
といった五感に訴えかけてくる要素があって、そうした情報は写真では失われてしまう。
でも、風景に限らず、写真を見て感動する要素があれば、それはズバリ言えば
見る人の想像力なのではないかと思っている。
想像力とは、その写真に写っている映像以外の部分を補完することである。
そして、その想像力とは、人間の経験からくるものではないかとも思っている。
様々な経験やその記憶、それらが1枚の写真から次々と連想されて、その時点で
自分の体験したことの感情の記憶までも呼び起こし、喜怒哀楽の感情までも引き起こす
のではないのであろうか?
たとえば、ある写真を見て、「胸がキュンとした」と言う。
その写真は、「失恋」をテーマにしたものだったとしよう。
でも、失恋をしたことが無い人が、その写真を見て「胸がキュン」とするだろうか?
たぶん、小さな子供などでは、同じ写真を見ても、同じ想像はしないかもしれないし、
同様に大人であっても、自ら体験したことのない(たとえそれが実体験ではなくて
TVやドラマやマンガや小説などの映像やストーリーも含む)点に関しては、
1枚の写真から、様々な連想や想像は沸いてこないのかもしれない。
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私個人の話をすれば、私は恐らく人並み以上に様々な人生経験を積んできていると
思っているのだが、そうした感動と呼ばれるような記憶の連鎖は、どちらかと言えば
映像よりも音や音楽から来る場合の方が多い。
昔の音楽を聞くと、その曲を聴いていた時代の様々な感情が明確に蘇る。
音楽は時間芸術であって、1つの曲(あるいは曲の一部)を聞くには、一定の時間が
必要である、(ビデオも同様である)それに対して写真は時間的な要素が止まっている。
(ただ、もちろん、写真でも時間的な想像力を膨らませることができるものもある、
たとえば著名な写真家の作品で、大きな水溜りを飛び越している瞬間の写真を見れば
その一瞬後で、その飛んでいる紳士がみずしぶきを上げて水溜りにハマるのは
容易に連想できる、でも、それはここで言う時間的な要素とは違う話である)
だから写真は、ある一瞬の映像を見ただけで、脳は様々な記憶をそこから連想し
様々な感情をも引き起こし、そして感動という感覚を持たせるのであろう、
余韻が残る写真とは、その連想が比較的記憶の奥深くの階層にあったりして、
写真を見た後でも、様々な連想が後からわきあがってくるものを言うのかもしれない。
(また、私はたまに、匠シリーズの商品にもなっている「ムービーキット」で
写真をベースとしたストーリー動画を作ることもあるのだが、時間的に次々と
変化する写真は、同時に沢山の静止画を見ることとは微妙に異なる表現となる)
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私の場合、もちろん写真は沢山見てきた。雑誌はもちろん、写真家の写真集や写真展
あるいはアマチュアの写真、あるいはブログでも毎日数十、いや数百の写真を見てきて
いる。 でも、この写真に感動した、と言えるようなものはほとんど見当たらない。
「なに、感動した写真が無いだと? 感覚が麻痺しているんじゃないのか?」
・・・まあまあ・・ これは自分なりに原因は推察できている。
1つは、写真という映像情報は、想像で補完するには、私にとって情報が多すぎるような
気がしてならない。 それは、たとえば音楽などに比べ、想像する余地が少ないように
思うのである。 もっと分かりやすく言えば、小説とマンガとどっちが想像の余地が多いか?
言うまでもなく小説である。 ある小説を読んで感動したとしても、それを映像化して
マンガやドラマになった瞬間、小説で色々連想できた想像性が脳に直接的に流れ込む映像
情報によって壊されてしまい、あまりにもリアルな映像情報として感動が薄れてしまうのである。
2つ目、これは自分の欠点でもあるのだが、写真を見るとまず撮影技法や作画意図を
まじまじとチェックしてしまう。 だから、感覚的な面よりも論理的な面がまず先に立ち
「この人は何を考えてこの写真を撮ったのだろう? そして何故ここで、50mm前後の
標準レンズで絞りを開けて撮ったのだろう?」・・・などと考えてしまう。
正直、マニア生活が長かったため、技法(機材や表現の)を見てそれを盗むことを優先して
しまうという損な性格なのである。
3つ目、これも自分の性格から来るものであるが、お手本を見ることを極端に拒むのである、
「お手本」とは、写真に限らず、他の芸術分野でも、社会的分野でも同様であるのだが、
ある人(先人)がやったことをなぞるのが、あまり好きでは無いのである。
常に人と違う自分なりのスタイルを追求する事を意識するあまり、良い意味では個性的、
悪い意味では変人、という認識を回りに与えてしまう。
「人のやっていることを見習って上手くなる」という概念は、私にはほとんど無い。
上手い、下手というのは、あるジャンルで純粋に技術的な面だったら同意できるが
(たとえばギターの奏法とか)そうでなく、ある種のスタイル的なものであれば、
それを真似る事で、一般的な意味での「上手くなる」という長所よりも、「個性が失われる」
短所の方を重視してしまうのである。 だから「こうすれば上達するとか」いう表現も、
私は少なくともこのブログの中でも、ほとんど使って無いし、同様に自分の写真が「上手い」
とも、一度も言っていない。
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そんな、いくつかの理由により、他の人が撮った写真を見て(もちろん自分の写真もしかり)
感動するということは、皆無に近かったと思う。
もちろん「これは凄いなあ」「これは好みだなあ」と思う写真はいくらでもある、
それが無いまでに無感動な性格だったら、写真をやるどころか、世の中を生きていても
面白くない事であろう。
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さて、いつの時代でも言われる事であるが、「最近の若者は感動するという事が無くなった」
あるいは「歳をとると、感動が薄れてなあ」または「日本人は感動を表現するのが下手だ」
などとある。
で「若者の感動が無い」というのは、恐らく数十年前の通説であり、現代ではあまり
そういう事はなくなったのではなかろうか? というかむしろ必要以上に喜怒哀楽を
表現する若者も増えてきたと思う。 パーソナル(個人的)な面と、パブリック(社会的)
な面での境界線の概念が極めて薄くなった現代においては、公の場でも必要以上に
個人的な世界に入り込んでしまって、前にも何度か述べたが公共の場などでの振る舞い
とかで周囲ヘのマナーに欠けることも多々ある状況である。
「歳をとると感動が薄れる」というのは、これもまあ理屈の上ではあたりまえ、
歳をとればそれだけ様々な経験を積んできているわけであり、感情の起伏は同様でも
感情の幅の変化のキャパシティ(容量=限界値)が広くなっているから、多少の事では
動じないし、逆に多少のことでは感動もしなくなってくうる。
これと関連して、歳をとると、1年の進み方が速く感じる、というのも、たとえば、
5歳の子供が6歳になるまでの1年で経験することは、それまでの人生の20%に相当する
様々な事象を経験するわけであり、80歳のシニアが81歳になるまでは、同様にそれまでの
人生の1/80、つまり僅か1.25%の新しい経験しか積めないのだから、脳の全体の容量に
対しては、子供の方が新たな経験を詰め込む要素が多く、時間の流れがゆっくりに感じる。
歳をとっても、新しいことにどんどんチャレンジして、新しい経験を沢山詰め込んで
いる人は、時間の流れがゆっくりに感じる場合もある。
逆に言えば、1年が早く感じるようになったら要注意、何も新しい経験も感動も
得ていないことになるから・・・
「日本人の感動の表現が下手」という部分については多分に国民性もあると思うが、
若者の・・で述べたように、現代では、その点はさほどでもないようにも思える。
私は以前海外で生活したことがあるが、確かに感情表現が豊かな外国人も多い、
けど、それは、国民性よりもむしろ個人の個性の要素の方が大きいと感じた、
外国人であっても、感情を表に出さず、何を考えているかさっぱりわからない人も多い。
そして、一ついえることは、日本人であっても、写真などで比較的強い感情表現をする人は
意外に本人はごく大人しく、感情表現が苦手な人も多い。
まあ、さもありなん、一般の生活の中で感情表現やそれに伴うコミュニケーションが苦手
だから写真をやる、という人も、今の時代の人には大変多いのである。
写真が記録的要素が強かった(日本の)数十年前の感覚では、これはなかなか理解
しずらい事なのかもしれない、けど、現代ではそれはまぎれもない事実である。
だから若い人達はこぞって写真で自己表現をしたがるし、年配の方々は、逆に自己表現を
極めて抑制した、お手本に忠実な写真を指向する事が多い。
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ついでに言っておくけど、たとえば、コミュニケーションの能力を増やしたいという
欲求において、英会話を習いに行く人も多い。 実際に仕事で必要だとか、海外に行った
時に必要だから、とか、そういう目的以上に、英語ができれば、外国人とコミュニケーション
ができて、異文化に接することができるとか、そもそも、英語で話をしているところを
周囲の人達に見せたら格好いいとか・・ そんな自己表現とも社会的認知ともいえるような
目的があって英会話を習うケースが多いのだと思う。
しかし、そうやって英会話を習う人達の一部は、自らのコミュニケーション能力に何らか
の苦手意識を持っていたりする。 そして結果はいつも同じである。 日本語でも不得意で
あったコミュニケーションが英語になったから自分が望むように変化するわけもなく、
結局根本的な部分の解決には至らないということなのである。
英会話以外でも、話し方教室というのもしかり・・・ 教室に通っているくらいだから
さぞコミュニケーションが上手なんだろうと思いきや、まったく自身の言いたい事を
周囲に伝えられない性格であったり、それとは逆に、周りの人の言うことを一切聞かずに
自分の言いたいことだけを一方的に話す性格だったりする・・
まあ、そりゃあそうだろうなあ・・ 話しが得意だったら、わざわざ話し方教室には通うまい・・
同様に、一般生活での自己表現が得意だったら、わざわざ写真教室とかに通って
写真で自己表現したいなどとは思わないのだろうなあ・・・
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え~と・・ 「感動」という話からかなり脱線しているが・・・(汗)
ただ、ひとつ注意しなければならないと思っているのは、今の若い人達の「大げさな感動」
である、以前から何度かそれらしい内容を記事の中でも書いているが、必要以上に
オーバーな感情表現をすることを指向する場合が見受けられる。
今の世の中、平穏に生きているならば、意外なほどに「心が揺れ動く」ような経験をする
ことは少ないのだと思う。 それだけ世の中は平穏無事に推移している、だから、20歳を
すぎても30歳になっても、下手すれば40歳になっても、人生観が変わってしまうような
激しい(社会的)経験をすることは無い場合もあるし、
また、たとえば、恋愛観にしても、年配の人が「今の若い人は・・」などと思うよりも
ずっと実際の恋愛体験は浅いものしか持っていないと思う。
そんな状況だから、たとえば、恋愛に関しては、信じられないほど小さいことで
心がかき乱されているのが現状だろうし、あるいは社会的経験にしても平穏無事だから
こそ、ゆっくりと歳を重ねていく事に対して、若い人は若いなりの大きな恐怖心を
持っている事が多い。 「私はこのままで人生終ってよいのだろうか・・?」と。
そんな状況の中、ごく小さいことでも、「感動しました」「チョー感動!」などの
極端な感情表現をしてしまうことが多く見受けられる。
ある意味、そうでもしなければ、あるコミュニティの中での社会的な従属感への欲求を
満足できないのではなかろうかとも思えてしまう。
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それと、これも以前記事に書いたかもしれないが、私が20歳くらいの時、様々な事象や
出来事に対し多感な感覚を持っていた頃は、たとえば夕日を眺めただけでも「感動」
したことがある、でも、そこで言う「感動」は、大げさなエモーションに過ぎない・・(汗)
それは確か9月の初めのころの夕日であった、家の近くの川面に映る夕日・・
真夏とはあきらかに違う僅かに涼しい風が吹いてきた。
失恋なんて、ほんの数回しかしていない若い頃・・ なのに、その夕日から感じる9月になり
夏が終る、すなわち楽しかった思い出が終る、という感覚は、私の中では、ある種の寂しさと
懐かしさと、そんなものが微妙に入り混じった感傷的な感覚が湧き上がってきたのである。
私は何をしたかと言うと、その光景を写真に収めたいとは思わなかった。
カメラとは無縁の生活をしていた当時・・ もちろんちゃんとしたカメラを常時持ち歩く
ような環境ではなかった。
私は、家に帰るなり、電子オルガンに向かって、一つのメロディを弾き始めた、
最初はでたらめな音階が鳴っていたが、1時間、2時間と弾くとそれはだんだん音楽の形に
なってきた。 感傷的なメロディは、感傷的な感覚を失ったらもう出てこない、
記憶と時間との勝負だった・・ ある程度完成したところで、私は五線紙を持ち出し、
そこにメロディの音符とコードネームを記載した。
同様に20歳ごろの時、日本海側を一人で旅した事があった。
途中、知人の同年代の女性の家に・・・といっても両親もきちんと同居しているのだが・・
の家に、やっかいになった事がある。 恋愛感情のカケラもお互いなかったが
二人乗りの自転車で近くの名所を回るなどして、楽しいひと時を過ごしたこともあった、
旅を終え、家に帰るなり、私はギターを持ち出し、クラッシック奏法のソロギターで
その旅の感傷的なイメージを1つの曲にまとめた。 1週間ほどかかったが、ともかく
それは完成した。
私は、当時の電子オルガンやギターで作った曲を、その後、シンセサイザーの演奏や
コンピュータ制御の自動演奏を多重録音して、カセットテープに記録した、
そのカセットは今でも大切に保管しているし、その音楽を聞くたびに、若い時代の
感傷や感動を、一瞬で思い起こすことができる、自分にとって非常に貴重な記録となって
いるのである。 もうそろそろカセットも厳しいので、デジタルデータに変換して
Wavファイルかmp3 の形式で、将来の為に残しておこうとも思っている。
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さあ、このままでは永遠に話が続いてしまう・・(汗)
この「写真」に感動・・
このテーマは正直、あまりに薄っぺらく、同時にあまりに深いテーマだと思う。
私個人の話をすれば、答えは今は持たないし、もっと単純には「この写真に感動した」
などという事も無い。
そして、ある意味、人を感動させるには、それ相応の経験も自ら積んでいかなければ
そう簡単に人に感動してもらう事もできないと思っている。
できれば、自分が感動を受けるより、人に感動してもらいたいようにも思っている。
それは写真という範囲に限らず、誰もが持つ欲求なのではないのだろうかとも思っている。
「感動」という感覚・感情は、そんなに薄っぺらいもので無い、
その裏には、色々な人生における経験や記憶に裏づけされた事実が存在する、
だから、そんなに簡単に「感動」してもらっては困るようにも思えるのではあるのだが・・・