エンゾさん、ヒゲマサさん、KEIさん、KYOKOさん等を迎えての「青の会」関西オフ会の時に
出た話。(注:青の会とは、ブログで青が好きな人の会であるが、メンバーは多岐に渡り
様々な主義・志向を持つ、個性派集団である。 作品投稿ブログへのリンクは左にある)
皆、それぞれ写真は撮っていて上手いのであるが、写真というものの方向性に
悩むメンバーに、私の方から切り出した。
・・・窓派、鏡派って聞いたことある?
「いや・・?」
・・・まあ、被写体を撮る時の感じ方なんだけど、窓を開けて外を見るように、自分の表現
したいことを、内から外に向けて見るタイプが窓派。
そして、鏡に映った自分を見るように、被写体を通じて内面を表現するのが鏡派なんだ。
「ふむ、それは、いったい?」
・・・いや、これは30年程前に米国で行われた写真展をきっかけに定義されたんだけど、
自分がどちらの派に属するか考えてみると面白いよ。
「具体的にはどういう事?」
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・・・窓派はわかりやすいよね? 景色が綺麗だな、格好いいな、爽やかだな、寂しげだな、
そんな自分から見た感情、感動を写真に表す。 あるいは、その場の情景を記録する。
まあ、今でこそ、「自分の表現を」という枕詞がついているように私は解釈しているけど、
この言葉が出来た当時は、おそらく「記録としての写真」の要素がとても強かったと思う。
なにせ、映像記録というのは、当時のカメラ(写真)にとってみては、重要な役割だった
からね。 今のように誰もが気軽に写真を撮っている時代ではなかった。
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・・・鏡派というのは、被写体を通じて自分の感情を投影させる・・ 難しいかな・・?
・・・そうだな、たとえば、このドラエモンの古く汚れたポスター。 普通、こんな汚い
ものはとらないよね? けど、ここには、ドラエモンを「楽しさの象徴」として、それでも
年月がたって昔の楽しさを振り返るとか、そんな風に考えるんだ。 そこでこのポスターを
撮る場合でもこのへんの、敗れかけたところを強調して、ドラエモンをぼかして撮るとかね、
そんな風に、自分の内面的な心情を被写体に鏡のように写しだして撮る。
「なるほど、なるほど・・ しかし、それなら、ボクは典型的な窓派だよね」
・・・多くの男性はそうかもしれないね。
「でも、鏡派って面白そうですね・・・難しそうだけど(汗)」
・・・うん、まずこの分け方は基本だから、是非やってみるといいと思いますよ、自分の
作品表現の幅も広がるからね・・
「匠さん、それ、記事に書いてくれます?」
・・・いや、書かない(笑)
「何故ですか?」
・・・だって、窓派、鏡派の話は、ちょと写真を勉強している人なら知っている話だし、
本を読んでも、ネットで検索しても、すぐに見つかるよ・・
私は、そういう、どこかにある情報をそのまま載せるのは嫌いなんだ。
「情報のバケツリレー」は何の付加価値も無いばかりか、私の個性を表現することにも
ならない。
だいたい写真をやっているのは自己表現でしょう? だから何の表現も無い写真なんて、
いくら綺麗だろうが、いくら高度な技法を使っていようが面白くない・・って、皆もいつも
言ってるじゃないですか?
・・・だから、私の記事も同じ事だよ、私のブログは私なりの自己表現だから、そこには
なんらかの個性を加味した付加価値がなくては記事を書く意味が無い。
「ふむ、なるほど・・ なら、どのように?」
・・・以前、私が書いた
記事で、被写体の見方、A,B,Cってのを覚えているかな?
「はいはい、あれは面白かった・・・」
・・・あのA群は、窓派に近いね。 B群は、鏡派かな・・ で、C群は、と考えた時に
あれは、何なんだろう? とずっと自分なりに考えてたんだけど、結局あれは「匠」だった。
「え? それはどういう意味?」
・・・一言で言えば、「自分では無い第三者の個性表現」・・別の言い方をすれば
「なりきり表現」かな・・?
つまりね、今、インターネットという匿名性の強い媒体が発展して、昔の「窓派、鏡派」の
時代とは全然環境が違ってきているんだ。 そして、ブログ・・この世界では、誰もが簡単に
第三者的な別のキャラクターになりきることができる・・
「フムフム・・・よくわかります。 私はわりとブログでは素の自分を出しているけど、
中には、実際に会うとずいぶん違う人もいますしね」
・・・そうそう、ブログの世界に別の自分がいたら、たとえば、ブログにUPする写真を
選ぶときに、少なくともその仮想のキャラクターの目線で選ぶでしょう?
さらに言えば、撮る時に、そうした第三者的キャラクターの目線で写真を撮ることも
できるかもしれない。
「面白い! なるほど、一種の多重人格ですね」
・・・うん、実生活でそんな事をやっていたら、周りの人が奇異に思うかもしれないけど、
写真の世界ならば害は無い。 だから、そんな、なりきり目線で写真を撮ったらいいよ。
「なるほど、それは、窓派でも、鏡派でも無い、新しい第三の派ですね・・・
興味深いです・・ う~ん、でも、難しそうだな」
・・・そうかな? 男性はそうかもしれないけど、女性はそんなこと、いとも簡単にやって
いるよ。 青の会の女性陣・・・そうですよね?
「ええ・・ たとえば、お人形さんごっこ、ってありますよね。 あれは、自分を完全に
その人形の環境になりきって、お父さん、お母さんはもとより、お姫様になったり、
自由に想像を膨らましているんですよ・・・
はい、なるほど、その気持ちで写真を撮ればいいんですか・・ それは面白そう!」
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じゃあ、具体的にここで、窓派(現代風)、鏡派、第三派の作例をあげてみよう。
まずは<窓派>からだ。
↑窓派①
青い空、綺麗な雲、変わった建物・・
まあ、要は被写体の綺麗さをシンプルに「窓を開けて」切り取る。
風景写真とかも、この類だ。 で、風景の場合構図がどうのこうのとか言うけど、たとえば、
こんな場合も、ちょっと構図的には、オーソドックスなセオリー通りで無い場合もある、
この写真もそうだ、本来は、もっと建物が強調されてもいいはずだ。
しかし、私などむしろ控えめなくらいで、若い女性の撮る写真の中には、こんな場合でも、
建物をほとんど、ちょこん、としか入れずに、一見信じられないほど構図的にアンバランス
な写真を撮っているのを見かけることも多々ある。 しかし、それは、それで彼女達の表現
の方法である事はもとより、作例はあくまで窓派であって、それ以外の何者でも無い。
↑窓派②
オーソドックスで綺麗に見たままを写すだけが窓派の表現ではない。
これは昨年京都の川で撮った夜桜、もちろんノーマルの色で見せてもいいんだけど、
色味をレタッチでいじくり、ちょっと幻想的なイメージとしている。
レタッチが介在した事で、心情表現が出るから鏡派のように思えるかもしれないが、
あくまで、最初の撮影時の表現で言えば、夜の京都のロマンチックかつ幽玄のイメージを
中から外に向けて表現しているから(現代風の)窓派だ。
↑窓派③
別に風景やネイチャー写真だけが窓派でもない。 スナップ写真の名手でも窓派と言われる
写真家はいくらでもいるし、ある瞬間を切り取るスナップでも、その結果として内から外に
向けて表現したい事が写真で表現されているならば窓派だ。
アンダーでローコントラストで抑えられた表現のスナップだが、明るい外の世界から
無機質でかつお洒落な建物の中に進んでいく女性の一瞬が表現される。
この瞬間を見て撮影者がどんな気持ちを想像したのか、それをスナップの一瞬で
表現する事さえも、窓派に属する。
↑窓派④
ブレ、ピンボケなどの、現代写真での表現がある。
いにしえの昔は、写真を綺麗に撮る事がひとつの技法・技術であり、その水準に満たない
ものは、写真としては認めてもらえなかった事があった。
現代は誰が撮っても、ブレやボケはほとんど起こさないほど、カメラは進化したので、
意図的なブレボケ表現は、むしろ表現の1つの技法として成り立っている。
この写真はシュウマイを食べる瞬間だが、シュウマイ自体は、完全なピンボケ・・(汗)
後ピンで食卓の中華料理にピントが合っている。
もし、どこにもピントがあってなかったら、さすがに失敗写真となってしまうのであるが、
この場合は、口の位置にカメラを置いて、あたかも、美味しいシュウマイをホクホクと
食べる瞬間のイメージを、視線に置き換え、それを写真に置き換えて撮影をしている。
だから、ブレやボケがあっても鏡派ではなく、この場合は、あくまで窓派の視点である。
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さて、次は<鏡派>に行こう。
↑鏡派①
錆びた釘、これは「廃物系」と呼ばれる鏡派の典型的手法の1つであり、さらには、
「フェンサー」と呼ばれる、フェンス越しに撮る写真で、内面と外面、または隔てられた
世界を表現する手法を用いている。
この写真で何を表現するかは、多くの場合は、写真を見る人の想像力にゆだねられる
ことになる。
たとえば「捉えられ、そのまま朽ちていく私の心・・ 先にも進めず、後戻りもできない・・」
といった、ストーリーを想像してもらう、あるいはそれを想定して写真を撮る(選ぶ)
この手の写真は、さらに、ピンホールカメラなどを利用すると、ぼやけた写真表現から
「それも、また、過去の記憶・・」のような表現にすることもできるし。
カラーバランスの崩れたトイカメラや、トイカメラ用に適するといわれる特殊なフィルムを
用いると「それが遠い夏の日の思い出」のように色味をコンントロールすることも可能であり、
さらには、周辺光量がドカンと落ちる特性を持つ広角カメラやトイカメラを用いて、
中央の釘に視点を集中させるような効果をつくりつつも、レトロな思い出チックな感傷を
より強調させる事も可能である。 もちろん、これらの効果はトイカメラで偶然に作るだけ
ではなく、デジタルの世界のレタッチで自由自在に表現意図としてコントロールできる。
多くのトイカメラユーザーは、そこまで考えてトイカメラを使っていないと思うが、
使うのならば、ともかく偶然性に頼らず、しっかり写真もカメラの事もわかった上で使って
もらいたいと思う。
玩具を玩具の範囲だけで使っていたら、写真もカメラのこともナメているとしか思えない。
↑鏡派②
これは窓派に近い鏡派表現である。
スコッチのオンザロックの氷、怪しげかつなまめかしい映像は、このバーに置かれた
主人公の心情を見るものに想像させる。 彼女が去っていった後一人で飲むウイスキー
なのか、あるいは、落ち込んだ心の中に、これから始まりそうな恋の予感を秘めて飲む
ウイスキーなのか?
アンダー(暗め)の中の光、というのは、これも鏡派のオーソドックスな技法である。
現実の世界の光、というのは、当然のことながら、光が目に入ってくるわけであるが、
写真や絵画での光というのは、それを鑑賞する際には、その場の光よりも明るいものは
得れるわけもなく、だから、結果的に「影の中の光」という形でしか表現できない。
したがって、光を表現するためには、かならず、暗い部分を十分に写真の中に
織り込まなければならず、初級の鏡派の中には、光を表現したいあまり、
どんどん写真が暗く(アンダーに)なっていくという傾向もある。
撮影時の露出補正や、レタッチ時(あるいはプリント時)の補正にいたるまで、
「アンダー病」とも言われるくらいに暗いイメージを好みだす場合もあり、
悪化すると表現技法のマンネリ化と、表現したい内容の単一化を招くので、気が付くと、
「暗いイメージの写真ばかり撮っている」ということになり、十分に注意が必要である。
別に暗いイメージの写真を否定しているわけではないが、もともと、「光を表現したいから
影を作る」という発想が原点だったのではないのか? だったら、楽しさを表現している中で
暗さを織り込めば、もっと、ダイナミックレンジが広がって表現の幅も広がる、という事に
是非気が付いてもらいたいと思うのである。
↑鏡派③
抽象的な被写体表現も、鏡派としては得意分野である。
抽象的な被写体ばかりを好み、場合によっては、このように露出もピントも正しい写真
のみならず、あえて技術的に失敗した写真を、抽象的である、という理由で選んだり、
もしくは、人為的に失敗をコントロールする(レンズへの息ふきけ、MFによるピントはずし、
極端な露出補正、低ISOでのブレ、銀塩での極端な増感・減感現像、トイカメラ使用など)
ことで抽象的写真を誘発するテクニックを使う場合もある。
しかし、抽象的だからすべて良し、という前に、その抽象が単なる独りよがりになって
いないかは是非わかってもらいたい。 その写真で何が言いたいのか? という部分が
わからなければ、鏡派といえども、単なる失敗写真(技術ではなく表現的に)にすぎない。
↑鏡派④
なんだかわからない被写体、というのも、鏡派の用いる必須アイテムである。
「なんだろう?」とまず目を引き、次に「何を言いたいんだろう?」と想像の連鎖を起こさせる。
これはなかなか有効なので、使ってもらいたいテクニックではあるのだが、それとて、
心情表現ができていなければ意味が無い。
今回は、鏡派の作例解説においては、少々辛口になっている。
何故ならば、窓派の作例講評は、フォトコンの審査をはじめ、あらゆる、写真教室とか、
中上級者のアドバイスにより、ある程度であるが確立されたルール(セオリー)がある。
しかし、鏡派は、言葉は悪いが無法地帯である。
新規分野であるから評価の手法が固まっていない、という状況はあるが。
「芸術的」という大義名分の元、表現したい事が伝わらない写真が、あまりに多いのである。
もちろん感覚面での評価は、人それぞれの好みもあり難しいから、ごくまれに、意図の無い
写真にも「これ好きです」と共感してもらえる場合もある。
けど、それに甘んじてはいけない、鏡派は自己表現が絶対であるので、そのへんを
ないがしろにした「崩した」表現は、技術的に失敗しているのみならず「表現的に失敗」
しているのである。
嫌いな写真をわざわざ「私はこの写真は嫌いだ」と言ってくる人もいないのだから、
たまたま10枚に1枚、人を共感させる写真が撮れたくらいで満足せずに、自己表現の
意味をよく理解した上で、わざわざ失敗写真ばかりを選ぶ「なんちゃってアート派」に
だけは、なって欲しくないと思うのである。
「綺麗なだけの風景写真が面白くないから」と言って、「ブレているだけの心情写真」
に走るのはどうかと思う。 アンチテーゼとか対極とか、は、表現の幅を広げるのにとても
有効な考え方だと思うが、アートの世界に踏み込むのは簡単な事では無いことを良く理解
してもらって、決して「綺麗な写真は意味が無い、ブレボケこそが個性だ、自己表現だ」
とか、安易な事は言わないでもらいたいものである。
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さて、最後は、<第三の派>である。
このジャンルは作例が難しい、何故ならば、私の分類によれば、これは、なんらかの別人格に
なりきって撮影するスタイルだからである。 以前の被写体分類記事のC群(Cタイプ)は
ある程度「匠流」が入っていたのであるが、今回の作例ではより広い各々の「なりきり表現」
を説明しなければならないからである。
・・まあ、でも、いい、そんな事で悩んでいたら、写真なんぞ撮れない・・(笑)
↑第三派①
誰もいない公園、構図的に乱雑に配置された遊具、インパクトのあるパンダのアングル、
傾いた構図、色調変換レタッチによる特殊な色味・・・
まあ、これは「匠流」に近い表現である。
綺麗でもないし、抽象的でも無いが、ここにはリズムが存在している。
右から左を回って下に抜ける3拍子である。 3拍子の曲の中に、本来は午前7時という
早朝撮影ながら、夕方、もう子供達が帰って誰もいなくなった寂しさを表現するレタッチ
による作画意図を表現している。 このシチュエーションに合うのは童謡であるが、
情景にマッチした童謡には3拍子が無いのも百も承知の上。 だから、不思議空間を
醸しだし見る人の意識を煙に巻く、というのは、典型的な「匠流」の作画表現となっている。
こんな写真がウケるわけ無い事がわかっていても、「誰一人考えつくはずも無い表現」を
目指すことが、匠の個性なんだから、それも一種の自己表現なのである。
↑第三派②
この写真を撮る時は、ある写真ブロガーの気持を想定して撮ってみた(汗)
「なりきり写真」は、気持ちを多重人格的にシフトしないと撮れない。
そして、青の会関西オフ会でも言った事が「キャラクターの履歴書(釣書)を作りなさい」
という事である。 年齢や環境がどうで、どんな主義主張を持ち、どんな志向や嗜好を
持つのか、それらを想定した上でキャラクター作りをしなさい、と・・
なりきり写真は、自分の中に無い第三者的な目線で被写体を見つめること。
その中では、その第三者が表現したい自己表現が存在している。
窓派でも鏡派でも無い、まったく新しい表現・・
今まではその表現は発表する機会が無く、発表しえないならば存在しえない写真で
あったのが、ブログ、あるいはインターネットという世界では、まったくの自分で無い
第三者となり、その写真を発表できるのである。
↑第三派③
多重露光ではなく、理髪店の外観である。
ここでは、青の会のブロガーはみんな写真を撮った。
誰もが目をひく被写体。 そう、同じ場所に行って写真を写したとしても、初級者は皆同じ
被写体を撮るが、中上級者は、それぞれ「これが同じ場所か?」と思うほと別の写真を
撮ることがある。 そもそも、ひとつは、被写体を探せるかどうか? つまり、その被写体から
感じれることがあるかどうか? という面もあるのだが、もうひとつは、さらに、そうして
発見した被写体に対し、シャッターを切れるかどうか? という部分も重要な問題である。
行く場所は皆おなじ、でも、1に、被写体が見えるか? 2に、それでシャッターが切れるか?
という2つの関門があり、結果的に、初級者と上級者との写真は大きく差が出てしまう。
ただ、この写真のように、皆がたまたま同じ被写体に目がいった場合は、あとは、技法と
機材の差により写真の差は決まる、同じ機材ならば、さらにその差が顕著ならば
ショッキングな結果になるのかもしれない。
けど、ある意味、初級者にとって、それは十分意味がある勉強になるであろう。
実は、この写真。 自分としては満足いく写真ではないので、同行したメンバーがより良い
写真を載せてくれる事を期待した上での掲載である。 もし、同じ被写体を、誰かがより
上手に撮れることができるのであれば、単に「写真は被写体で決まる」わけでは無いことが、
十分に証明できるからである。
ちなみに「写真は被写体で決まる」というのは、私がとても嫌う考え方であり。
そのために、ローケーションやシャッターチャンス、あるいは機材というものを偏重したり、
撮る時に考えること機材をあつかう技術や技法、自分の言いたい事を表現する手段・・
などの重要なポイントに欠けた考えに陥りやすいと思っているからである。
多くの初級者は「被写体がたまたまよかった」「被写体の力に助けられた」あるいは
「タイミングが悪かった」「被写体に恵まれない」「写す物が無い」などと言うのであるが、
それでは、知識も機材も技術も経験もセンスも表現も個性も何も介在する余地が無い・・・
写真の本質は、そんな単純なものでは無い事を、よく考えてもらいたい。
↑第三派④
最後、これはあきらかに「匠流」の表現技法である。
大阪の都会的なイメージの写真と、友人M嬢のおどけたポーズの写真の合成、
さらに、レタッチにて、特殊逆光効果、周辺光量増強、レインボーノイズの付加、により
不思議空間を作り上げている。
「何故こんな写真を、これで何を言いたいの?」
という質問に対しては、私は、この手の写真により、新たな写真表現技法を提案したい
のである。
これもある意味、綺麗なだけの写真へのアンチテーゼであることは否めないのであるが(汗)
私は、少なくとも技術的に失敗した写真を堂々と載せるような事はしていないし、
綺麗な写真でもわざと加工で汚くして載せる事が殆どである(汗)
でも、その汚さ、というのは、ある種の表現したい意図があるのであり、たとえば、失敗した
写真をレタッチでなんとか救済しようとしている考え方とは根本的に異なるのである。
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今日のまとめとしては、オフ会でも出た話であるが、「フォトコンに出展し、入選を目指す」
などと考えている人は、全写真人口の1%にも満たなく、その方向性はメージャーでも
ポピュラーでも無いという事でなのである。
多くの人は、写真をもっと別の側面から楽しみたいと思っているのであって、
フォトコン審査委員の好みそうな風景やスナップ写真を撮り、「レタッチしたものでは写真では
無いといった」箱庭的なレギュレーションの中で戦う事だけが、写真の楽しみ方の全てでは
無いという事なのあである。
もっと写真は自由であり、個々の楽しみ方がある。 「自由でなくてはならない」と言う人ほど
本当にその部分がわかっているのだろうか? と、はなはだ疑問である・・