以前話題になった
不真面目な写真の続編。
「をいをい、また不真面目な写真かよ?」
「何が真面目で何が不真面目かわからないよ」
・・・まあまあ、私としても、真面目や不真面目が何かと定義をつけたり結論を出すつもり
も無いし、深く論議してもあまり意味が無いだろう? ともかく、写真を色々な角度から
考えたりしてみたいんだよ。 まあ、そんなつもりで、軽く読んでもらったらありがたい。
・・・なので(?)、引き続き「不真面目な写真」パート2である(笑)
↑①GRD 凸レンズ加工
PCによるレタッチ技術が発達すると、ありとあらゆる加工処理ができるようになってきた。
事実上、たとえばアリバイ証明などに写真が使えなくなった事は間違い無いのであるが、
とは言うものの「加工では、何でもできるからインチキだよ」と言う考え方はどうだろうか?
写真は表現の一形態であり、決してその名のように「真」を「写す」ものでは決して無い。
広角レンズの誇張された遠近感や、大口径レンズの背景ボケなどは、肉眼で見たものとは
全然異なる世界である以上、写真を撮る段階でも、あるいは撮った後の段階で、表現の為の
変形や加工が行われているのである。
「だから写真という呼び名そのものがおかしいんだ、たとえば△△と呼ぶのが良い」
・・・仰る通りであるが、いまさらすでに広まっている単語を無理に変える必要も無いし
言葉の定義は辞書屋さんとか、学術的な機関での論議に任せておけば良い。
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ならば考え方を変えれば「写真とはきちんと見たままに撮らなければならない」という
概念そのものが古いという事になり、デジタルだろうかアナログだろうがそんな事は
無関係に、表現形態をもっと自由にするという考え方にシフトして行くのが当然の方向性
であろうと思う。
ただ、ある種のレギュレーション(制限事項)の美学、というジャンルはありうる。
簡単な例を出せば、車やバイクのレースではエンジンの排気量の制限があり、
レスリングやボクシングでは、選手の体重の制限があり、ゴルフでは使えるクラブの本数
に制限がある。 だから、写真においても、無加工のものという制限の中で戦うのは
それは、それでアリであって、別に完全否定するものでは無い。
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しかし、銀塩時代であっても、フィルムに写すという結果まで、を基準とすれば、無加工と
いう部分で切り分けが容易であったのが、プリントという処理においては、前出のRAWの
現像屋さんの一件ではないが、事後処理での差異が出てくるから、レギュレーションという
意味そのものがあいまいである。 機械焼きで自動補正したプリントと、手焼きで原版の
様々な箇所の濃度を変える「覆い焼き、焼きこみ」等をやって「トリミング」したものとを
同列に考える事自体が不合理であり、レギュレーションの意味をすでに持てなくなっている。
だったら、未だにコンテストでよくある、「デジタル加工不可」、というのは実際には、
レギュレーションの問題ではなくて、審査する側の問題が多くを占めていると考えることは
できないであろうか? ネイチャー写真を審査し続けて30年といった御老体の審査員に
いきなりバリバリの加工作品やCG合成を出しても審査する基準を持つことができないであろう。
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そしてもうひとつが「自由度が高いことは不自由」という事である。
もう今の時代では当たり前であるが、たとえばデジタルカメラであってもパソコンの
ソフトウェアであっても自由度を上げればあげるほど、複雑になり使いにくくなる。
アナログ時代の数十年前まではハードもソフト(あるいは機器を扱うという事)もできる事は
制限があって、多くはなかった。
で、その自由度を高める為に、複雑な機構を追加したもの(たとえば精密な時計)は、
作るのに手間もお金もかかる高級品であった。
そしてデジタルあるいはパソコンが普及し、CPUとして時計をはじめカメラから携帯電話から、
何でもあらゆる製品の中に組み込まれるようになると、機能を追加する事は容易に行える
ようになってきた。
しかし、多機能になるほどそれは使いにくいものになっていった。
特に 1995年頃までのPCも含めたあらゆる電子機器はその問題がピークに達していた
ように思える。
それは何故そうなったかというと、消費者の感覚は、アナログ時代の1970年代のまま
であったから、「あの機能がついている、この機能がついている」といった製品が
もてはやされたからであった。
メーカーはデジタル化により自由になった機能をどんどん付加価値として投入し、
それで他の製品との差別化をはかるようになっていた。
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だが、さすがに21世紀を迎える段になってくると不要なスペック競争はもはやあまり
意味を持たなくなり、「使いやすさ」を訴える製品も出てきはじめた。
けれど、それをちゃんと付加価値として認めている消費者は依然少数であり、本来は十分
わかっているはずなのに、いまだに、AFモードは2種類よりも5種類あった方が高性能だ、
とか言っている人も後を絶たない。
・・・何が言いたいかというと。 色々なことができるというのは、何もできないということと
ほとんどイコールになってきていると言う事である。
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では、ここで話を戻して、PCにおける写真加工の例をあげてみる。
Photo Shop や Paint Shop Pro あるいは、高機能レタッチ系フリーソフト、
そのメニューを開いてみると、聞きなれない用語が何十、あるいは何百と出てくる。
なにかいじくれば、当然写真は加工される。
「おお、変わった・・・」 最初はまあ、面白いから色々いじくってみるのだが、そのうちに
自分の思うように加工ができない事に気がつく。
自由度が高すぎるのである・・ そして、やりたい事は、「写真の表現力を増やす」という
事であり、両者は考え方の次元が、根本的にかけ離れている世界にある。
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さらに具体的な例をあげよう。
「匠さん、この紅葉の写真を、寂しいイメージにしてください」
・・・ぐっ(汗) そんなの、できるわけないでしょう? いやあ、私以外の人に頼んで
もダメですよ、きっと誰もできません。
・・・でも、逆に言えば、それは誰にでもできますよ、明るさや色を変えただけで、
自分的に寂しく感じるかもしれないし、もっと簡単に、画面の一部を切り取る(トリミング)
しただけでも寂しくなるかも知れませんよ。
・・・要は「一般解は無い」けど、「個人としての特殊解はある」という事ですわ。
自由度が高いから何でもできるのではなく、どういう機能をどんな時に使ったら、それが
どういう「心理的な、ヒューマン(人間的)な結果」をもたらすかという部分が、大切なの
である、それはアートのレベルに達すれば、自分の感覚によってそれに近いものを作れる
かも知れない。 しかし、それに一般解は無い。
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楽器の例で言えば、デジタル化はすでに写真より早く始まり、シンセサイザーの自由度が
爆発的に向上した1990年ごろ、音を調整するツマミやパラメータの数が何百になった時、
もうそれは人間がチマチマいじくって音色を作れるレベルではなくなった。
だから、すでにある、ピアノとかバイオイリンとかの楽器や、既存のシンセの代表的な音色に
近い音を入れておき、それを好みに応じてちょっとだけいじくれるようになったのである。
さらに、研究レベルでは、たとえば「寂しい音」を作るには、どこをどうすれば良いのか
たとえば寂しい音というのは周波数特性がどうなっているのか?
音程の変化がどうなるのか、エンベロープはどうか?
そんなことも研究されていた筈であるが、実際にはそういう機能はまだ実現されていない、
同じ「感覚に依存する世界」であっても、画像に比べて音は若干シンプルであるから、
デジタル音響の世界ですでにやられたことは、いずれデジタル画像の世界でも同じような
コンセプトの考え方で出てくるだろう事は、以前から何度も述べたとおりである。
だから、あと100年くらいは、あるいは永久に「写真を寂しく見せるレタッチソフト」は
出てこないであろう。 しかし、「写真を寂しく見せるレタッチ人」は現れるだろうし
今だって、そこらじゅうにいるであろう。 たとえば寂しげな写真表現を作風にしている
ブロガーは、必ず寂しげな写真を選んで寂しげにレタッチしている。
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・・・話が大幅に寄り道しているが(汗) 当初の話題に返るならば、
「パソコンで写真加工が自由にできるからといって、簡単にどんな写真でも作りだせる
わけではない」という事である。
「この写真はパソコンで加工したから邪道だよ」 と考える前に、まずは、一度加工と
いうプロセスを体験してみてもらいたい。
膨大な数の元素材(写真やイラストやCG) 実際にソフトが使える環境とそのソフトの
機能の膨大さ、あまりの自由度の多さに、何をどこからどうやって手をつけていいかすら
分からなくなってしまうこともあるであろう。
つまり、写真を撮る事すら膨大な表現の手法があって、たいがいは、いや一生を通しても
それを自在にコントロールすることができない状況において、さらにパソコンで加工する
というのも同じいやそれ以上に多くの表現手法の可能性があって、それらが掛け算、いや
累乗のレベルで働くわけである。
そのバリエーションの量は、数値の無限乗(高等数学で言う 「A1」=”アレフ・ワン”
の数濃度状態 ~アレフといってもどこぞやの団体の名前じゃないよ・汗)の組み合わせが
存在するようにも思われる。(このへんは難しいので突っ込みはなしよ・・笑)
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だから、「たくさんあるから出来る」のではなくて、たくさんある中からやりたい事を
選ばなければならず、それがしんどい。
適当な考え方では、その99.999%までは失敗に近い選択肢にしかならないから、
加工は難しいのである。
ほとんど、選ぶ為の思考回路は神がかり的に降りてくるようなものであって、一種の
インスピレーション、ひらめきなんだと思う。
たとえば芸術家が「ひらめいた」と叫ぶなり、筆をふるったり、彫刻を彫りはじめるとか、
作曲をするとか。。
そんなイメージは古今東西の漫画やドラマやあらゆるところで使われているが、
それはまさにその通りなのではないであろうか?
要は、あらゆるアートはエントロピーの減少の方向に動いた結果なのではないであろうか?
エントロピーの法則(熱力学の第二法則)は、ものすごく簡単に言えば、
「ものはほっておけば、だんだんちらかる」ということである(笑)
散乱、拡散し、バラバラになって行くものを秩序正しく並べたり、揃えたり、選び出すには、
大きいエネルギーが必要だと言う事になる。
まあ、一人暮らしの独身男性の部屋もエントロピーの法則により、どんどん散らかって行く(汗)
それを解消するためには、たとえば彼女が遊びに来るとか、とてつもないエネルギーが発生
しないかぎり、絶対に整理整頓の方向性に転ぶはずもない(笑)
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さて、何が言いたいかというと、意図を持った加工はとてつもなく難しいという事である、
合成においては、パロディは比較的容易であろう、しかし、パロディもお笑い要素ではなく、
ありえない状況で何かを表現しようとすると、その瞬間に表現意図という重みを感じる
ことになるであろう。
どこかの新聞に載った写真で、満月と鳥を合成した写真があったと聞く、
その写真が合成だった事から「捏造」と騒がれ、よく知らないが散々な目にあったと聞く。
ちなみに、その場合は、「写真を撮った」とウソを書いたのが問題なのであって、「合成」
写真そのものが悪であるという意味とは違うと思う。
しかし、実際に写真を撮っているカメラマンでも恐らく半数以上は、合成写真を認めて
いないという現状においては、一般の方々においては、ほぼ8割がそうした記事を読んで
「やっぱ合成写真はインチキだよ」という感想を持ったに違い無いであろう。
けれど、やっぱ、合成や加工というジャンルは表現力の宝庫で、かつ難しいというのが、
私の意見である、これは、おそらく実際にその作業を経験した人でないとわからない感覚。
だから、インチキだとか邪道だとか言う前にその世界の難しさと自由度の高さを一度体感して
もらいたいとも思うのである。・・・手に負えないことはすぐにでも実感できるだろう。
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そして、前述の、新聞の見事な合成写真は私は見ていないが、おそらく渾身の作品なの
であろう、ウソはいけないが、恐らく発表のしかたを間違っただけであって、きちんとそれを
映像作品として評価してもらえるところに出せば、また違った結果になったのかもしれない。
この内容は、私はこれ以上詳しくないし、この問題を私のブログで討議する気もさらさら
無いので、その点は、もしコメントを入れてくれる場合には配慮していただきたく思う。
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さて、写真を加工するという作業の世界を知ってしまうと、
写真をそのまま載せるのは、限りなくイージーに思えてくるであろう。
でも、その考えも誤りである、写真は写真という範疇においても、無限大の表現の
可能性をもち、普通は、それだけでもまったく手に負えない世界なのであるから。
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そして、冒頭の写真は、GRDでなにげなくビルの掃除のゴンドラの風景を撮ったもの。
そのままブログに乗せても何等問題ないし、無加工のままでも「ヒヤヒヤ」とか「年末」とか、
様々な写真表現をテーマに持たせることもできるかもしれない。
だけど、そこに凸レンズ加工、という処理を1段加えることにより、一種の「不真面目な写真」
としての要素が出てくる。 何度も言っていることだが、これは私個人の表現要素であるので
写真を見てどう思うかは見る側でも千差万別である、けど、それを伝えたい「集団」というのは
私の中には確実に存在しているから、その写真をセレクトしているわけである。
集団は「全体」ではなく「一部」かもしれないし、「個々」かもしれない。
多くの人に何かを伝えられればいいという場合もあるし、たった一人に伝えられればいい
という意図もあるだろう、そういう部分は、表現の対象という事になって、また別のテーマ
として発展するものであるとも思う。
ともかく今日の話に結論なんぞは何も無い、ただ、写真には、様々な考えるプロセスや
表現のプロセスがあって、しかるべきであり、少なくとも「何も意図せずに」、写真を撮ったり、
選んだり、加工したり、載せたりしているだけではつまらない、・・・という事は言えると思う。
↑②GRD 無加工
もう一枚の「不真面目写真」である。
むかし、どっきりカメラというTV番組があって、芸能人をいろいろ仕掛けたり、騙して、
最後に「実はどっきりだよ」というオチで、まあ、面白かったが若干過激な要素もあった
番組であった。
この番組は海外にもそのコンセプトが輸出され「キャンデット・カメラ」という名前の
番組が存在していた。
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スナップ撮影の一種に「キャンデット・フォト」というジャンルがある。
私は、番組のキャンデッド・カメラの印象が強かったので、この名前を聞いたときに、
「人を驚かして撮る写真」なのかと思ったが、実際にはそこまではやらないみたいである、
まあ、せいぜい、被写体に撮られている事を意識させずに、コンパクトなどの小型カメラで
さりげなく撮るというイメージである。
ただ、それとても昨今の肖像権や人権などの考え方からすれば、盗撮だとか、人権侵害
だとかなるので(世知辛い世の中であるのだが)、あまり過激にやるのはご法度なのであろう。
でも、ある意味、ポーズをとらせたり、何か変わったことをやっってもらって撮ったりするのも、
ひとつの考え方では「演出」と呼ぶ事もできるし、悪い言い方をすれば「やらせ」になる。
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こっちの方向性を取れば叩かれ、あっちの方向性を選んでも叩かれるのであれば、
だんだん人は萎縮して思い切った事ができなくなってしまう。
結局、世の中そうやってなんでも事なかれ主義となっていって、平凡な方向性に
足をひっぱり合う状態になってきてしまっているのではなかろうか?
ブログという表現ツールの中でも、もっともっと新規性の強い作風を持ったブロガーが
どんどん出てきてもらいたいと常々思っているのであるが、何か変わったことをやれば、
古い価値観や古い常識を持った層に反発されるわけであり、とは言って、逆に反発しなくても
その突出した事が本当に良い方向性なのか、あるいは単に奇異な事をやっているだけなのか、
そこを正しく判断する事すらも難しいのであろう。
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さて、この写真は、キャンディッドではなく、むしろ「やらせ」写真に近い内容である、
ただ単にリバーサルを確認するためのルーペ越しに女性の目を撮ったにすぎない。
ピントが甘いのは、この位置ではカメラとルーペの合成焦点が目にくるはずも無いからで
あって、AFがおかしいのでは無い(汗)
そして、ここで言いたい事は技法ではないし、新しい写真の方向性の論議でもないし、
演出の是非でもない、そういうテーマは必ず賛否両論の考え方を持つ層が存在するので
結論が出る領域ではない。 そんな議論をしても時間の無駄だし、読んでいる人も
面白くないであろう。
じゃあ、なぜそういう可能性がある話題を沢山書いているかと言うと、それは、結論を出す
為じゃなくて、そういう方向性が事実としてある事を認識してもらいたいということである。
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今日は「不真面目」というテーマで、書いてきたつもりが、様々な話題に飛んでしまった(汗)
「演出」については、決して不真面目なものでではなく、一つの写真の方向性として重要
だと思う、それはまた、ごく近いうちに別の記事でまとめてみようと思う。
「不真面目シリーズ」についても、気が向けば、もっと不真面目な写真(笑)を撮って
載せたいと思う。