カメラの基本は何であるか言えるであろうか?
ズバリ、「絞り、シャッター(速度)、ピント」である。これが3要素。
実際のところこれ以外の要素は何も無い。
「AFがあるだろう?」
AFというのは、単に自動でピントを合わせてくれるにすぎない、
自動とは言え完璧ではないから、AFモード(シングルとかコンティニュアスとか)
あるいは、AFエリア(測距点)と、その選択。はたまた、グループダイナミックAFとか
AIフォーカスとか、余計な機能がどんどん増えていく。
まったく、使いやすくなったのか使いにくくなったのか理解できない。
とりあえず、レンズのヘリコイドを回せば、どこかでピントが合う。
それはファインダーから目で見て確認すれば良いだけ。
MFは原始的であるがそれ以上は何もいらないはず。
「PASMの露出モードがあるぞ!」
露出計にしたがって絞りとシャッターの組み合わせを変えているにすぎない。
しかも、両方勝手に決まる(P)、片方を決めればもう片方が決まる(A,S or Tv)、
露出計を見ながら両方とも自分で決める(M)の方式があるに過ぎない。
何度も言うが、露出値(絞りとシャッター速度)を勝手に好き放題いじくっても、
何も作品など生み出せない。
それどころか、適正な値にしないと、真っ黒、真っ白な失敗写真を量産するのみである。
「じゃ、露出補正は?」
カメラが勘違いするので、白っぽい被写体はプラスにする。黒っぽい被写体はマイナス。
以上である、適当に勝手にいじくっても失敗の山。 貴方のブログはそんな写真ばかり。
「絵文字のピクチャーモードというのがついているが・・・」
これはどうしょうもない機能ですね、子供だましも甚だしい、これは絞りとシャッター
の組み合わせと、ごく僅かな付加機能を追加しているにすぎない。
たとえば花のマークにあわせたからといって、どんなレンズでも、ぐわ~って被写体を
大きく写せるわけがないだろう?
こんな機能がついているカメラは子供用である。すぐ買い替えなさい。
「ISO感度はどうした?」
これはまあ、必要な事である。まあ、しかし、絞りとシャッターの組み合わせが変わる
だけであり、根本的なカメラの原理に影響は無い。
超初級編なので、これくらいで十分であろう。
もう少し詳しいところは、追って次々に記事に書いていく。
5/12 17:30 追記
phoboze氏のブログ
写真にまつわるモノコトで、マニュアルカメラの使い方の連載が始まりました!
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カメラの3要素がわかったら、次にデジタルの3要素である。
「処理速度、記憶容量、伝送速度」である。
「え? カメラの話では無いのか? 全然違うぞ・・・」
そう、デジカメをカメラだと思っているから、いつまでたってもデジタルが理解できない、
デジカメはカメラの格好をしていて、たまたま写真が写せるが、中身はコンピュータである。
今時のコンピュータは、音楽を奏でたり、ビデオが見れたり、言葉をしゃべったりするわけで
あるから、写真なんぞ撮れて当たり前である。
ところで、フィルムのカメラ(写真)の究極の目標は画質の向上である。
だから、高性能のレンズがどんどん進化していき、フィルムもどんどん改良され、
カメラ本体の機能も、あるいはそれを使いこなすための人間の技術も、さらには、
作品としての完成度を高める行為も、すべては画質の向上の目的に向かっていた。
一部の、この流れに乗れない人達は、経済的、技術的、経験的、知識的、心情的等の理由で、
トイカメラなどの低画質カメラに走る事もある。でも、それはフィルムカメラの本筋では無い。
本筋を極めてから、低画質に走るのは表現手段の一種であるからかまわないと思うが、
本筋を極めずに寄り道する行為は大変良くない。これはすぐさま反省するべきだと思う。
写真は、「真を写しだす」ものであるから、あくまで基本は、高画質化である、
リアリズムの徹底的な追及、そのために、知識も機材も技術も経験も、・・そして、そのレベル
に達している人は皆無ではあるが「感性」もまた、そこに存在しうる。
写真は奇をてらうものでは無い、表現としての芸術すらも、基本的に美しい事が前提であり
醜いものを是とみなす行為は一時的には可能であっても、常時それが許されるものでは無い。
この事実に違和感を感じる人は原理原則がわかっていない、
「だったら高いレンズを買わなければいけないのか?」
そうではない! 最終目標の価値観をある方向に定める事で、様々な判断基準が生まれて
来るという意味である。
誰でも写真が上手くなりたいだろう。目の前の綺麗な被写体、あるいは感じる気持ちを、
写真に込めてみたいだろう。だから、それを画質あるいはリアリズムの追求と置き換えて
いるにすぎない。
たとえ、抽象的で心象的な表現技法だって、その感情をいかにリアルに映像化するか?
というシンプルな事実に原理的・原則的には他ならない。
ごちゃごちゃと能書きをたれる前に、1本筋を通して考えてみれば容易に理解できるだろう。
人生もまたしかり、最終的に生きていく為の目標が定まらなければ、ふらふらと思考の
迷宮に陥り、何をやっているのかわからなくなるであろう。 原理原則やら価値観というの
はそういう事である。
まず、カメラそして写真における、すべての努力目標は、全てこの原則を基本としたまえ。
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そしてデジタルの3要素、これは、フィルムや写真とはまったく異なる目標の概念を持つ。
デジタルはある決められた範囲を守る為に、いかに省略するかというのが基本概念である。
★処理速度、すなわちたとえばCPUの速度は有限である、高速のCPUは、巨大化したり
電力を消費したりするから、ある大きさのカメラやパソコンに搭載するのは困難である。
カメラに入っていて、たかが電池で動くCPUに、撮影から再生から連写から、画像処理
から何でもかんでもやらすのは良くないし、勿論無理がある。
だから、カメラでできる事はカメラでやって、カメラでは能力的に苦しい事は、パソコンでの
処理にまかせるという線引きが必要になる。 例をあげればデジタルズームやモノクロ化、
ノイズ除去や、手ぶれ補正、その他画像処理、こういうことは、パソコン上でやった方が
はるいに楽で効率的で良いに決まっている。
パソコンですら数秒かかる処理を、いくら画像処理エンジンを積んでいるとは言え
カメラ上で1秒に何コマという連写の間にやらせる方が無理がある。
ニコンD2Hは、AFフレームの選択ボタンの反応が遅い。 あんな大きなカメラですら、
いや、あんな大きなカメラだからこそ、高速に連写したり様々な画質向上の為の処理を
カメラの非力なCPUにまかせるから、肝心の操作性の部分までCPUの頭が回って
いないのである。設計ミス、と言ってしまえば簡単であるが、要は有限の能力の
割り振り方が下手なだけである。
例えば創造性の高い有能な社員を会議や来客や電話応対で振り回して、忙しい、忙しい
と言わせているようなもの。それは忙しいのではなくて無駄な事をやっているに過ぎない。
★記憶容量、たとえばメモリーの量、こういうのも勿論有限である、だから調子に乗って
画質が良いからとRAWでバカバカ撮って、メモリーをすぐにいっぱいにして、
パソコンのハードディスクに無理やり詰め込み、RAW現像や重たい処理を沢山して、
とんでも無い大きさのファイルサイズのJPEGに変換して、それをまた、まともな
圧縮処理もせずに、ドカンとWebやブログに載せたら、リソース、すなわちコンピュータ
資源を無駄使いしているとしか思えない。
エキサイトブログを無制限容量(有料)にしたからと言って、大手を振ってデカい写真を
アップロードされたらかなわない。そのつまらない写真の数枚分の容量があれば、
そこに例えば、丸々百科事典に相当する量の情報量が詰められるわけですぞ。
それを無駄と思わない方がおかしい。
メモリーは必ず有限である、だからデジタルの歴史はいかにメモリーをケチる事を
考えるか、という風に発展してきている。様々な圧縮などはその最たる技術であろう。
たまたまメモリーも最近は少しだけ進化して容量が増えてきた時代に生まれたからといって、
無知に資源を浪費するスタンスは、決して許せるものでは無い。
ハードディスク容量が余っていたら、地球環境データの記録保存にでも使ったほうが、
よっぽど世の中の為になるだろう。
★伝送速度、これは大きくはインターネットなどの通信に関係したり、細かいところでは、
デジカメの中で、たとえばCCDの画像を読み出してCFカードに書き込む速さなど
が代表的な例であろう。
つい10年くらい前までは、デジタルの世界でも機器と機器の間のデータのやりとりは
とてつもなく遅い事が常識であった。これはたとえば、CPUやメモリーが1秒間に
何百万とかいう処理の数をこなせるのに対し、伝送する時は、1秒間に数千という量に
落ちてしまう事が一つの例である。
1000倍とかの速度差は、たとえば時速4kmで歩く人間と、マッハ3で飛ぶ超音速戦闘機
程の速度の開きと同様である。蟻や亀の歩みから考えれば人間は速いかもしれないが。
デジタルの世界に置き換えれば、データの伝送速度というのは、超音速戦闘機から見れば
まさしく人間のように「遅い」世界である。
今は、インターネットでもブロードバンドネットワーク等で、かなり速い伝送速度が
得られる、しかし、何度も言うがこれも有限である。ADSLや光ファイバーは貴方
だけのものでは無い。貴方のオーバースペックな大容量写真を見るために伝送される
情報量は、必ずほかの誰かの伝送速度(帯域)を圧迫している。
他の情報はもしかしたら、医療や行政で使われる非常に重要な、人の生死にかかわる
情報のやりとりかも知れない。
だから、こんな事からも、デジタルの世界は、アナログの世界のように上の無い「青天井」
等ではない。
必ず「有限」という概念が、どんな場合でも真っ先に頭に思い浮かばなければならないの
である。
デジカメの画素が30万画素しかなかった時代は、今や800万画素が当たり前になって、
まあ実用的といえばそうであるが、まずそれでも有限であるから、写真をどこまでも大きく
引き伸ばせるわけも無いし。
また、有限であるがゆえに圧縮もしない写真をカメラからPCに写し、さらにWebサーバー
に移し、世界中の人がインターネットを経由してダウンロードして見るという流れすらも、
本来そんな無駄があってはならない。
私がいつも口を酸っぱく「画像圧縮をきちんとしなさい」と言っているのは、そういうデジタル
の基本概念ができていない人達を強く戒めている事である。
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今はやっていないが、私は以前SETI計画の端末に登録していた事がある。
SETIとは、NASAだか科学アカデミーだかの計画であり、
宇宙に存在する様々な電波から、地球外生物の通信等と思われる意味がある電波の並び、
すなわち情報を抽出する事である。
これは、とんでもないコンピュータの計算量が必要になるので、原理的にはできるが、
実際のところはそんなバカでかいコンピュータを持てるわけがない(有限である)
だから、SETI計画では世界各国のインターネットに接続されたパソコンのユーザーに声を
掛け、何十万、何百万台というパソコンにプログラムをインストールしてもらい、
その人のパソコンが空いている(暇な)時に、その地球規模プロジェクトの計算を少しづつ
やってもらい、また全部のデータを集めて分析をするという事を行ったのである。
すなわちこれは「分散コンピューティング」の概念である。
「なんだ宇宙人探しか、関係ないよ・・・」
って言っている人は、同じ原理で、たとえば、台風等の精密な進路予測や、地震の予知が
可能だと言えば、それでも知らん顔をしていられるだろうか? それは自分の事にすぐに
ふりかかってくる事実となりうる。
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何度も言うが、コンピュータ資源は全部有限である、有限であるという基本概念をまず
わかっていないと、写真においても、デジタル処理は何ひとつ理解できない。
そして、すべてデジタルの世界は有限である事がわかれば、ある「機能」に関して
無理をさせようと言う気には絶対にならないはずである。
これはカメラやパソコンやネットに無理をさせないという事にもつながるが、それは
決して感情的な「いたわり」の世界ではなく、ドライに言えば「効率化」の世界観でもある。
言い換えれば無駄を徹底的に省く事、それがまずデジタルの基本。
仕事や生活の上でも、デジタル型人間は無駄を絶対にしない。
人生の時間、あるいは自分でできる事の範囲は有限である。
能力は有限であるという概念の認識すら無い人間は何でもできると思い込んで無理をしたり、
余裕が無くなったり、様々な失敗をしたりする。・・・精神論では何も解決できる訳が無い。
人生ならば、多少の失敗は取り返す余裕があるかもしれないが、
デジタルの世界は有限であるから、オーバーフローしたデータは二度と戻ってこないし、
(たとえば露出オーバーで白飛びしたデジタル写真は、それで終わりである!)
消去したデータも二度と戻らない。 だから、デジタルは失敗を決して許さない。
デジタルだから何でもできるという事はまったくない。
むしろ、デジタルだからこそ、できる事とできない事をきちんと理解しないと、
絶対に何をやっても失敗するし、デジタルの知識も何一つ身につかない事であろう。
何度もくどいようだが、「デジタルとは有限」である事をまず心底理解した上で、
この【匠のデジタル工房】をはじめ、あらゆるデジタルに関する事を勉強したまえ、
そうでないと、古いアナログ型人間では時代から取り残されるばかりではなく、
前述の通信回線の伝送量ではないが、結果的に他人に大きな迷惑をかけている事すら
気がつかないで振舞っている事であろう。決してヘラヘラ笑っていられる状況では無い。
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写真解説:例によってコンピュータグラフィック100%の仮想世界の仮想写真。
想像力はあくまで無限の世界観に属するが、だからと言って、創造性を持つ事ができるのは
能力や時間に限りのある人間である。
今のところ、コンピュータは想像性を発揮できるシロモノでは無い、
「だから人間はあくまで人間だよ・・・」などと青臭い事を言うべきでは無い。
貴方がコンピュータを使って何かをやる以上、
あるいはコンピュータそのものであるデジタルカメラを使って写真を撮る以上、
そこには、まったく違う概念の2つの異なる物が歩み寄る事が必要になるのである。
いくつか記事に書いた国籍による異文化交流どころか、これこそ人間と宇宙人程の差が
ある世界である。今のところ、すなわちコンピュータは人間側に歩み寄る事は難しい、
だから、人間がコンピュターの方に歩み寄らなければならない。
コンピュータの世界観がわからない人間は、これから先の時代、コンピュータを使って
自分自身の為にする事すら、何もできなくなっていくだろう。
それを「情報ヒエラルキー」等と言って、「救済してやろう」等と甘い事を言う世論が
ある事なども明らかにおかしい。
たとえば、誰かが外国語や外国文化がわからないからと言って世界各国に日本語の
看板を立てて、何処でも日本食が食べられるようにして、さらには和式トイレを何処にでも
設置するのであろうか?
情報ヒエラルキー救済論は、そんな馬鹿げた事と同じである。
コンピュターの、あるいはデジタルの原理を理解する事を放棄する事は、コンピュータ社会
の中で生きていく常識すらも放棄する事にほかならない。
また、趣味あるいは自分の行動価値観そのものを、お遊びと言って生きていける程人生は
甘くは無い。